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2008年2月

2008年2月12日 (火)

イジメかっこ悪い?

 アニメの『シゴフミ』でイジメがネタになっていました。話自体はべつになんと言うことはないのですが、イジメの嫌な感じを非常にうまく表現されていました。コンパスでさしたり、人間競馬はさすがに現実的では無いですが、女子がイジメにどう関わっているかという感じが非常にうまいと思います。私も中学のときにいじめられていたので、あの独特な死にたくなるほど辛い感じを表現したのはすごいです。
 今回はイジメについて語ろうと思います。よくテレビなどで教育関係者や評論家(気取り)や政治家たちが「イジメ問題」を語ると、面白いくらいに本質をはずしてむちゃくちゃな議論をします。イジメは単なる傷害事件を見るような見方では、それほどたいしたものではなく、日本の個のあり方という観点を踏まえなければそのえぐさを知ることはできません。
 日本に限ったことではないのでしょうが、実は人間はそれほど強い個というものを必ず持っているわけではありません。社会や共同体、他人の中で自分がどう思われているかという、他者の中の自分の姿を自分自身に投影してかろうじてアイデンティティーを保とうとするものなのです。つまり周囲に自分を承認してもらうことで、自分の形が決まっているということです。日本はこういった社会への存在の依存度がかなり強い国です(というよりも依存するような人間を育てるように教育がなされている)。
 こうなると他人の自分への評判が即ち自分であると本気で思うようになります。この自分の存在の形を他者に決定させるという現象は、俗物には本当に理解できないものだと思います。エヴァでいうと、シンジ君が「エヴァのパイロット」という他人からの評価を自分の存在の形に採用したことを思い浮かべてください(そして周知のようにそのために苦しむ羽目になります)。世界と自分とを等号で結ぶために、自分を世界にあわせるという対自的意識の現象と捉えてもよいでしょう。
 イジメの辛さの本質は、周囲から存在を否定され、それがダイレクトに自分で自分の存在を否定しなければならなくなることにつながることです。これは実際日本のような国では殺されるのと同じことです。「イジメ問題」で踏まえるべきことは、日本のような国では周囲から存在を否定、あるいは嗜虐の対象になるということが、個人の存在に致命的な威力を発揮するということです。
 またイジメる側も自分の存在を共同体と照らし合わせているので、主体的な判断ではなく共同体としての意識で行動します。つまりイジメは共同体験であり、一種の祭りです。火種が、誰もが持っているデュオニュソス的な嗜虐性なだけで、いじめることによって自己承認がなされるのですから、やる側にしてみたら面白くてやめられるわけがありません

 長々と説明したようなことがどうやら即物的な俗物どもにはこういったことが理解できないらしく、まともな議論を聞いたことがありません。宮台真司氏ぐらいしかまともなことを言っている人を知りません。

 蛇足としてイジメについて建設的な提案をして話を終えようと思います。

 ・いじめる側について
 愚民どもを抑える規律も当然必要ですが、デュオニュソス的(興奮と陶酔に結びつき、それゆえに血なまぐさい物)な物が人間と不可分であることを認めるべきであり、何かしらのデュオニュソス的な物、場、体験を用意すべきです(PTAの糞ババァどものせいでそれが今日本に決定的にかけている)。わかりやすく言えばガス抜きです。

 ・いじめられる側について
 個人的にはイジメは悪ではないと思っています。というのは社会の構成要素の大部分がイジメをするような人間で構成されているため、社会がイジメは「悪」であるといってもそれは欺瞞でしかありません。
 いじめられた人には二つの道があると思います。それでも他者に自己承認を求め続けるか(これは結局いじめる側の人間と同レベルの人間であり続けることを意味します)、自分が社会には認められえない存在と割り切り、自分だけの楽しみを見つけて、社会と自分の存在とを積極的に切り離すかです。私はお分かりのように後者を選びました。
 しかしいずれにせよ学校には行くべきではありません。本田透が「いじめられて自殺するくらいなら不登校になれ」とかいう本を書いていますが、まったくの同感です。彼の考えははっきり言って滅茶苦茶ですが、結果的には一致することがよくあります。私は卒業まで学校に通いましたが、中学なんて行かなければよかったと今でも思っています(行かなくても大学には行けます)。次回あたりに語ろうと思ってますが、私は「コミュニケーション」を一つのゲームとして捉えています。いったんイジメられると最早そのゲームに勝ち目はありません、負けが決まっているという意味ではその時点でゲームですらありません。

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2008年2月10日 (日)

たまには嫌いな作品でも

 いつもいろいろな作品を勝手にほめてきましたが、たまにはけなしてみようと思います。
 今回取り上げるのはマンガの『真説・ザ ワールド イズ マイン』という作品です。私はこの作品に、途中で嫌気がさしたので全5巻(一冊一冊がめちゃくちゃ分厚い)のうち2冊しか読んでいないので、作品がどういうからくりを持っているかといったことは当然不完全な形でしか語れないので、内容について深くは語りません。
 はっきり言って私はこのマンガが大嫌いですが、自分の考えが深まったという意味では感謝しています。(胸糞悪さでトントンといったところでしょう)恐らく作者や、多くの読者たちとは別の意味でいろいろ考えさせられました。

 私はこの漫画で「コミュニケーションとはいかなるゲームなのか」ということについて、自分なりの考えを持つことができました。この考えのまとめのようなものをいつかここで述べようと思っています(次回かその次あたり)。今回はなぜこの漫画が嫌いかということのみを述べようと思います。

 この作品は作者も言っているように「道徳の教科書」として作られたものだそうです。 
 そのために「人の生き死に」を描き、「道徳と宗教」を語ろうというのが作者の意気込みだそうです。(これは分厚い単行本のインタビューで作者が述べていたことです)
 この作者はその道徳のために反語的な主人公(特に理由なく人を殺して楽しんでいる、恐らく子供が虫を殺す行為になぞらえているのでしょう)を用意し、徹底的に暴力を「痛く」表現している。私がこの作品が嫌いな一番の理由がこの「痛み」です。またこの作者の訴えようとする道徳も私は大嫌いです。(ですがこの点は作品を通して読んでない私が深く踏み込んでいい領域ではないので触れません。もし全部読んでいたらボロクソにしてやりますが。)
 精神と肉体が完全に分離したものという誤解を招きかねない言い方ですが、そもそも「痛み」というのは外部の刺激(神経の伝達、視覚、聴覚等)が内部に伝達され、その内部で起こる反応です。(ここで言う内部には魂や、感性、意思といったものがあると思ってください)いわゆる「痛いと思っているから痛いんだ」という無茶な表現がありますが、これはあながち嘘ではなく、気の持ちようによっては痛みはある程度コントロールできます。この作品が与えるのは文字通り、精神(いやな言い方ですが適当な言葉が見当たりません)の中でおこなわれる現象の痛みです。痛々しい光景を、わざと「痛く」感じるように描写しているのです。
 現実に起こっている暴力が感情移入ができるかどうかで、「痛く」感じるかどうかが大きく変わるように、外部に関しては基本的には痛みは存在しません。例えば犬が好きな人は犬の死骸を見ると「痛み」を感じるでしょうが、特に愛着のない人にとっては単なるグロテスクなものに過ぎません。人間を精神を閉じ込めた箱に見立てると、「痛み」は箱の中に喜怒哀楽といった感情と同次元にあるのです。
 喜怒哀楽といった情は外部から操作できないように思われるでしょうが、技術があれば実は簡単に操作ができます。映像で言えばこの手のマインドコントロールが一番うまいのがスピルバーグでしょうか(サメとか恐竜とか撮ってた頃のコイツは評価しますが、シンドラーのリスト以降のコイツはこの作者と同じ理由で嫌いです)。私は個人的にはこういったマインドコントロールがすべてダメだとは言いません。むしろいろいろな作品を楽しむためには絶対的に必要なのでかなり肯定しているつもりです。
 一般的な軽薄な作品(ここでの軽薄は悪口ではありません、軽薄な大傑作も存在します)が「痛み」を植えつけるような操作をするのはかまいませんが、この作品がやろうとしたことは「道徳」で、完全に軽薄な作品の範疇を超えています。この作品の「痛み」はその痛みの直後にもれなく道徳が不可分についてきます。
 この道徳の刷り込みの理屈は簡単で、敢えて反語的に「人間は無価値だと」いい読者の道徳観を挑戦的に揺さぶり、その暴力を徹底的に「痛く」描き、その痛みから「やっぱり人間は尊いんですよ」という道徳を刷り込むというからくりです。
 個人的にはこの作者の道徳は私には非常に胸糞悪いです。私は道徳というのは社会を守るための一装置、あるいはバタイユの言うように「衰退」した人間の考えるものだと思っています。しかし世の中にはキリスト教の作り出した愚物以外の何物でもない救済としての道徳があります。この作者が提示している(というより押し付けている)のは救済としての道徳(非常に狭い意味での宗教)であり、しかもそれを根拠付けているのは単なる脅しのレトリックです(「人を殺してはいけないのは、あなたも殺されるのはいやでしょう」という類のものです)
 純粋に暴力を描いて、その結果に「痛み」を見込むのならば私はそれほど怒らないのですが、この作品の描いているのは暴力ではなく、それを通り越した洗脳のための「痛み」です。道徳をやりたいなら、他人にそれを認めてもらおうという目的では、悪質な公開オナニーになることはわかっています。洗脳の技術で勝負せずに、道徳の質で勝負してもらいたいものです。
 この作品の中で「人間は変に賢くなったんです」といってますが、こういった小賢しい方法で自分の道徳で洗脳させようとすることを、変に賢くなったというのです

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