イジメかっこ悪い?
アニメの『シゴフミ』でイジメがネタになっていました。話自体はべつになんと言うことはないのですが、イジメの嫌な感じを非常にうまく表現されていました。コンパスでさしたり、人間競馬はさすがに現実的では無いですが、女子がイジメにどう関わっているかという感じが非常にうまいと思います。私も中学のときにいじめられていたので、あの独特な死にたくなるほど辛い感じを表現したのはすごいです。
今回はイジメについて語ろうと思います。よくテレビなどで教育関係者や評論家(気取り)や政治家たちが「イジメ問題」を語ると、面白いくらいに本質をはずしてむちゃくちゃな議論をします。イジメは単なる傷害事件を見るような見方では、それほどたいしたものではなく、日本の個のあり方という観点を踏まえなければそのえぐさを知ることはできません。
日本に限ったことではないのでしょうが、実は人間はそれほど強い個というものを必ず持っているわけではありません。社会や共同体、他人の中で自分がどう思われているかという、他者の中の自分の姿を自分自身に投影してかろうじてアイデンティティーを保とうとするものなのです。つまり周囲に自分を承認してもらうことで、自分の形が決まっているということです。日本はこういった社会への存在の依存度がかなり強い国です(というよりも依存するような人間を育てるように教育がなされている)。
こうなると他人の自分への評判が即ち自分であると本気で思うようになります。この自分の存在の形を他者に決定させるという現象は、俗物には本当に理解できないものだと思います。エヴァでいうと、シンジ君が「エヴァのパイロット」という他人からの評価を自分の存在の形に採用したことを思い浮かべてください(そして周知のようにそのために苦しむ羽目になります)。世界と自分とを等号で結ぶために、自分を世界にあわせるという対自的意識の現象と捉えてもよいでしょう。
イジメの辛さの本質は、周囲から存在を否定され、それがダイレクトに自分で自分の存在を否定しなければならなくなることにつながることです。これは実際日本のような国では殺されるのと同じことです。「イジメ問題」で踏まえるべきことは、日本のような国では周囲から存在を否定、あるいは嗜虐の対象になるということが、個人の存在に致命的な威力を発揮するということです。
またイジメる側も自分の存在を共同体と照らし合わせているので、主体的な判断ではなく共同体としての意識で行動します。つまりイジメは共同体験であり、一種の祭りです。火種が、誰もが持っているデュオニュソス的な嗜虐性なだけで、いじめることによって自己承認がなされるのですから、やる側にしてみたら面白くてやめられるわけがありません。
長々と説明したようなことがどうやら即物的な俗物どもにはこういったことが理解できないらしく、まともな議論を聞いたことがありません。宮台真司氏ぐらいしかまともなことを言っている人を知りません。
蛇足としてイジメについて建設的な提案をして話を終えようと思います。
・いじめる側について
愚民どもを抑える規律も当然必要ですが、デュオニュソス的(興奮と陶酔に結びつき、それゆえに血なまぐさい物)な物が人間と不可分であることを認めるべきであり、何かしらのデュオニュソス的な物、場、体験を用意すべきです(PTAの糞ババァどものせいでそれが今日本に決定的にかけている)。わかりやすく言えばガス抜きです。
・いじめられる側について
個人的にはイジメは悪ではないと思っています。というのは社会の構成要素の大部分がイジメをするような人間で構成されているため、社会がイジメは「悪」であるといってもそれは欺瞞でしかありません。
いじめられた人には二つの道があると思います。それでも他者に自己承認を求め続けるか(これは結局いじめる側の人間と同レベルの人間であり続けることを意味します)、自分が社会には認められえない存在と割り切り、自分だけの楽しみを見つけて、社会と自分の存在とを積極的に切り離すかです。私はお分かりのように後者を選びました。
しかしいずれにせよ学校には行くべきではありません。本田透が「いじめられて自殺するくらいなら不登校になれ」とかいう本を書いていますが、まったくの同感です。彼の考えははっきり言って滅茶苦茶ですが、結果的には一致することがよくあります。私は卒業まで学校に通いましたが、中学なんて行かなければよかったと今でも思っています(行かなくても大学には行けます)。次回あたりに語ろうと思ってますが、私は「コミュニケーション」を一つのゲームとして捉えています。いったんイジメられると最早そのゲームに勝ち目はありません、負けが決まっているという意味ではその時点でゲームですらありません。
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