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2008年3月

2008年3月28日 (金)

いやぁ~、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ

 ガンダム00がすごいことになってますねぇ。三木さんと藤原さんのテンションの高さに驚きました。キャラ大虐殺は富野ガンダム(ターンAは除く)の定番ですが、禿は基本的に死亡フラグとかはたてない無いので、フラグびんびんの00は、時代の変化を感じさせます。
 コーラは死んじゃったのか、くぎゅぅとちわわに見せ場はあるのか等、気になる点が多いですが2期を待つしかなさそうです。まぁ「お前のケツの穴を狙い撃ちたい」というネタが使えなくなることだけは確かだと思います。

 まったく関係ない話ですが、前回の更新で「ロザリオとバンパイア エロ」の検索ワードに引っかかった人が結構いたみたいです。全然そんなつもりは無かったのですが、だますような結果になってしまって申し訳ないと思います。皆さん夏まで待ちましょう。
 ところで前回は澁澤龍彦の「悪徳の栄え」についてふれました。そのあとでたまたま伊集院光さんのラジオを聴きました、伊集院さんはアダルトビデオについてどこからどこまでがOKなのかということを話題にしていました。伊集院さんは非常にすっきりした正論を述べていましたが、日本における「わいせつ」の歴史、性表現の規制の歴史を知らないんだろうなという感じがしました。恐らく私が性表現の検閲の歴史については常識だと思っているようなことが、一般的にはあまり知られていないようです。ということで今回は性表現の規制の歴史を解説します。次回はその続きと私の意見を述べようと思います。

 私はエロ漫画が大好きです。抜くか抜かないかという、単純なポルノとしての枠の中で、どれだけポルノにとどまらず漫画としての技量、個性を出すかという奥の深さ、そしてそれに自分がどう向き合い、楽しむかという面白さがたまりません。ただ1冊あたりの値段が高いので古本屋を利用することが多くなります(自分のニーズに照らすと玉石混合だというのもあります)。
 古本屋で物色をしていたところ、定価の3倍以上の値段で売られている漫画がありました。ほかの漫画が定価以下の値段で売られているなかでは、その漫画は明らかに異質でした。そのプレミアのついたエロ漫画というのが実は裁判で発禁を食らった「蜜室」という、その筋の世界では有名なエロ漫画でした。私が戦後のわいせつ裁判として(刑法175条猥褻物領布罪が適用された裁判)重要だと思うのは伊藤整のチャタレイ裁判、澁澤龍彦のサド裁判、そしてこの「蜜室」が訴えられた松文館裁判の3つです。

(下の三つの裁判はどれも出版した人も訴えられてますが面倒なので省きます)

 1 チャタレイ裁判
 これは戦後間もない日本で起きた、政治経済の教科書にはたぶん載ってる(私が高校生のときは載ってました)有名な裁判です。
 イギリスの作家D・H・ロレンスの書いた「チャタレイ夫人の恋人」という、作家の妻と庭師の不貞の愛を描いた作品を、伊藤整という日本の作家が翻訳しました。この作品は妻と庭師の情事が非常にこと細やかに描かれていることから、猥褻であるとして訴えられました。伊藤整は最高裁まで争ったのですが結局猥褻であるとして、この小説はいくつかの部分を削除(*で伏字になりました)されました。法学的に重要なのは、憲法にある公共の福祉と表現の自由との衝突で、公序良俗に関しては表現の自由は制限されるという最高裁の判例ができたことと、またこの裁判で猥褻とは何かということを、一応形にしてみた猥褻の三要件が決まったことがあります(当然のことですがここで定められる猥褻と、前回三島由紀夫や私が決めたわいせつは違います)。以降の裁判はこのチャタレイ裁判を基準にして決まるようになってます。

      猥褻の三要件
     1 いたずらに性欲を刺激する
     2 正常な人間の羞恥心を害する
     3 善良な人間の性的道義心に反する

 後日譚として伊藤整の息子伊藤礼が、伊藤整版の『チャタレイ夫人の恋人』を、些細な誤訳等を治してほぼ伊藤整版に近い形で出版しましたが、何の問題も無いようです。当時の規範に照らせば猥褻なのでしょうが、今これを猥褻だといえば鼻で笑われるでしょう。すくなくとも2,3の「正常な人間の羞恥心」、「善良な人間の性的道義心」は時代によって変わる物だということです。(もっとも最高裁の判決文では猥褻が絶対的なものではないということが記されています)

 2サド裁判
 マルキ・ド・サドのジュスティーヌ関連の物語のいくつかを、澁澤龍彦が翻訳しまとめた『悪徳の栄え 続ジュスティーヌ』が猥褻物領布として訴えられました。前回述べたように澁澤もこの裁判で負けました。
 しかしこの裁判騒動でで二つのポイントがあります。一つは裁判にかかわった澁澤や三島が、いわゆる猥褻が一切消滅した世界は絶望的なまでに味気無く、つまらない物だということをさまざまな場で発言したことです。もう一つが司法に携わる人間の猥褻か否かの判断が、単純に見る人間の生理的嫌悪感によるものでしかなく、実際にそういった人々は、局部が描かれているかどうかという即物的な理屈立てしかできない人たちだということが露呈したことです。
 この『悪徳の栄え』はアナルセックスか二本刺しがスタンダードで、終始一貫しキリスト教的美徳や道徳に糞を塗りたくってます。まさに阿鼻叫喚の糞尿地獄です。淫行、騙し、窃盗、虐殺がこれでもかとおこなわれ、その行為者たちは「いやぁ~生娘を犯して殺すのは最高だぜぃ!!」と幸福と満足の絶頂に至り、悪徳に邁進するものはますます繁栄を極め、美徳に従う者はとことん虐げられていきます。勘違いされないように断っておきますが、最初から最後までこの調子です、けっして悪党が成敗されるなどという軟弱な、安心できる展開は用意されていません。まさに「公序良俗糞食らえ」な作品です。前回紹介した三島が言う猥褻に当てはまるのは明らかです。しかしこの作品で抜けるという上級者はあまりいないでしょう。私もその域には達していません。つまり猥褻の3要件の1つ目をクリアしていないわけです(これが弁護側の論点でした)。しかし判決はこれを猥褻であると強引にこじつけました。豪華メンバーによって法廷で展開されたサド論のほんの一つまみでも裁判官が理解していたかははなはだ疑問です。
 作品の猥褻性が作品の文学的価値によって薄められるかいなかといったことを、まわりくどく延々と語っていますけれども、猥褻性と文学的価値を切り離して考えているあたりが、猥褻が表現の露骨さかいなかといったレベルでしか考えられていないのをうかがわせます。

 3松文館裁判
 これは記憶に新しいのでご存知の方も多いと思います。
 どっかのオッサンが自分の子供のエロ漫画を見て、その本を取り締まるようにとの嘆願文を手紙にしたため、警察OBの議員の平沢勝栄に投書したことが事件の始まりでした。すだれハゲは警察に取り締まるよう口利きをし、なぜか警察はそのエロ漫画を出版している松文館の別の漫画である『蜜室』を摘発しました。
 この裁判も証人に齋藤環氏(病気としての引きこもりの臨床、研究に携わる精神科医で、オタク文化の研究でも有名)、宮台真司氏(サブカル、哲学、政治と守備範囲の広い社会学者)、ちばてつや氏と有名人が集った豪華な物でした。
 この裁判はチャタレイ裁判やサド裁判とは違って芸術対公共の福祉という構図ではなかったこと(作品が芸術という「高尚さ」を持ち合わせていないということは共通見解でした)、初めてマンガという日陰の文化が槍玉に挙げられたこと、オタクの2次元におけるセクシュアリティーがどういうものであるか、本当に猥褻なるものが公共の福祉に反しているのか(適切にゾーニングがなされていれば問題がないのではないかということ)等のことが現実的かつ重要な争点であったことなどでしょう。
 またこの裁判も負けました。この裁判は次回詳しく述べようと思います。

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2008年3月19日 (水)

ロザリオとバンパイア お花畑を焼き払え!

今期のアニメもいろいろなアニメがありますね。今月で終わるアニメ、終わらないアニメいろいろあります。
 ほのぼのとしたいい感じの空気を出している「のらみみ」、ますます眠くなる「ARIA」の三期、漫画黎明期の演出なのに今観ると物凄い斬新な「墓場鬼太郎」、新房テイスト全開な「俗・絶望先生」、富山最強伝説を作り出した「true tears」と「PERSONA」等々いろいろです。

 それらの中でひときわくだらなく、私のツボを刺激するのが「ロザリオとバンパイア」です。(この言い方だと上に挙げたアニメもくだらないみたいですね、違いますよ)
 脇役がやたら大御所だったり、突然作画がすごいんだかすごくないんだかわからないものになったり、バンクの意味不明なハイキックや、OPとEDがどう見ても逆だったり、あとやっふふ~んだったりといろいろと魅力があります。しかし何より一番の魅力がそのお馬鹿なお下劣要素でしょう。もうこれでもかというくらいパンツを見せてくれるし、ロリから巨乳、ヤンデレと幅場広いニーズに対応したハーレムを展開してくれてます。
 もう最高にくだらないです(笑)、ありがとうございます!
 さて私はこのアニメをわざわざ夕方に見ています(大学が終わってからです)。なぜならこの時間帯がもっともこのアニメが「わいせつ」になる時間だからです。

 三島由紀夫の「不道徳教育講座」の「桃色の定義」という回で、サルトルの思想を引き合いにしてわいせつとは何かと述べています。ここでさらに私がそれを引き合いに出そうと思います。
 物事を「品の良いもの」と「品の良くない物」に分けると、「わいせつなもの」は後者になります。「品のあるもの」とは内側に自由を秘めているが、その必然性が光で照らされているものです。三島は品のあるものの例にバレリーナの踊りを挙げています。バレリーナは自由に舞っているように見え、しかし同時にある種の予定調和な様式美があります。つまりそれ自体に一個の存在としての自立と、あるべきところにあるべきものがあるといった必然性があるものを「品のある物」としているのです。洗練された生き物のように動く機械(エヴァの動くビルみたいのです)の機能美や、世界遺産の建築物のような様式美、漫才のボケとツッコミのようなものも品のよいものに入れてよいと思います。
 また「品の良くない物」はそうでない物です。たとえば銃をもった兵隊の洗練された動きは訓練の様子では品の良いものですが、子供に銃を向けていては品が悪い物になります。英語もとちりながらしゃべられると品が悪く感じますが、流暢にしゃべると格好良くすらあり品がよいでしょう。特にあるべきところにあるべきものが無い、あるいはあってはならないものがあってはならないところにあるのは品のない物です。とくにわいせつはそれに性的なニュアンスが入るといったところでしょう。
 ミロのビーナスやギリシャのアポロ像は美術館に飾ってあれば「芸術」として品の良いものですが、辛気臭いお葬式の会場においておけば猥褻になるでしょう。
 三島由紀夫は、友である澁澤龍彦が翻訳したサドの「悪徳の栄え」が猥褻物としてつるし上げられたいわゆる猥褻裁判で、「猥褻は観念的である」として彼を弁護したのは有名な話です。ただ彼の「わいせつ」によれば女子供の穴という穴を犯し、殺し、バラバラにして火の中に放り投げるような「悪徳の栄え」は、あるべきところにあるべきものがありのままに描かれた「チャタレイ夫人の恋人」とは違い、明らかに猥褻です。マルキ・ド・サドだって、自分を牢獄に追いやったキリスト教の糞坊主どものはびこる世界に、徹底的に糞をひりかけてやるために「悪徳の栄え」を書いたのですから猥褻の権化のようなものです。
 この裁判は澁澤龍彦の弁護に三島由紀夫のほかに大江健三郎や遠藤周作といった大物作家が名を連ねた正に「お祭り」でした。大江健三郎は単純に憲法に保障された表現の自由を守るために闘ったのでしょうが、当の澁澤龍彦は堂々と裁判を遅刻したり欠席したりとしているところを見ると、自分のやったことが違法であり、裁判も勝ち目が無いことをなんとなくわかっていたような気がします。澁澤本人は「性器が描かれていれば猥褻である」といったくだらない理屈立てしかできない馬鹿な法律家どもへのムカツキを単純に爆発させたかっただけなのでしょう、まさに裁判自体が「法の正義」や「法の真実」といったたわごとに糞をぶちまけるわいせつなのです。

 話がそれましたが私は猥褻を、あってはならないとされているところに存在するエロと捉えています。つまり夕方の家族がみんなでご飯を食べているときに、テレビでおっぱいがポロリとするような素晴らしい事態をわいせつと呼びます。だから私は「ロザリオとバンパイア」がわいせつになる夕方を狙って観ているのです。
 私はこのブログで散々「かくあるべきである」と「かくある」とが混同した認識である「規範」と、「即自的」「対自的」という言葉を使って、辛く苦しい此岸(この世)と夢見る彼岸(ここではないどこか、あるいはあの世)の狭間でいかに人間が苦しむかということを語ってきたつもりです。まぁわかりやすく言えば「こうなってほしい」という夢や理想とどうにもならない現実とのギャップで苦しむことです。また人間は生きている以上はここではないどこかを夢見ながら辛くつまらない此岸で生きていく(そうしないと生きていけない)ということものべました。
 エロを楽しむその根底には人間、特に男の本能に完全にビルトインされた性欲があります。しかしエロは単純に性欲にはとどまりません。彼岸であるところの女性に、自分が抱く幻想でいかにより楽しむかという非常に高度なゲームであります。そして人間の歴史はセックスや性器といった性的なものを汚い物として日常生活から排除してきました。とくにそれを熱心に進めたのがキリスト教で、社会が発達するとセクシュアリティも監獄に閉じ込めるために、汚い物として覆い隠す必要が出てくるのです。このどうにもならないつまらない現実の性を抱えて生きつつ、エロを夢見て人は生きていくのです。(それをするなというのは去勢しろといってるようなものです)エロがわいせつ足りえる空間でエロを楽しむ、つまりわいせつを楽しむことで、よりそのエロへの幻想に入り込みやすく、そして同時に憎たらしい世界への復讐感情と背徳感を同時に満足することのできるのです。要するにわいせつは最高に面白いエロだということです。
 よく「少年誌での乳首はエロ漫画の乳首とはありがたみが違う」(by大暮維人)とかいったり、アフリカの部族の女性の裸が体型云々は別としてエロくないのは、エロ漫画の世界やアフリカの部族等の世界ではむしろ服を着ていないのが普通ですから(笑)、乳首はエロであってもわいせつではありませんが、少年誌の中では乳首はわいせつだということです。アダルトビデオは見る前が一番楽しいのはそれに期待しているのもあるでしょうが、それを期待することがわいせつだからじゃないでしょうか。エロ本が散らかった一人暮らしの部屋で見るより、親の目を盗んでこそこそ観るのが一番楽しく、何より燃えます
 またわいせつを楽しむためにはスケベでふしだらな物はけしからんという、ジジィやババァがいてくれないとそもそもわいせつという前提が崩れてしまうのでそういった人たちが必要なのも事実です。私はそういった古きよき人たちに感謝する一方、思いっきり馬鹿にします。なぜなら彼らの存在には馬鹿にするという素敵な使い道があるからです。
 私個人に限らずわいせつなくして近代社会、とりわけ日本は成立しないといって過言ではないと思います。なんかの歌にあったように「夢を見るのは人に生まれたから」であり、人間を夢から切り離すのはあまりに酷です。もともと日本がほかの国より優れていたのは政治的な規範や建前が厳しくある一方、個人の彼岸への夢にはある程度お目こぼしがあったことです。
 また一つ勘違いしないでもらいたいのはこういった、わいせつなどの彼岸への夢は現実に実現するべき物ではない、そして実現されないからこそ面白いのです。イスラエルのユダヤ人がいつまでたってもパレスチナ人を敵にしたがっている、あるいは嘆きの壁を直そうとはしないのは(現実に直そうというバカもいますが)、夢の都エルサレムを永遠に求め続ける対象にとどめ、自分たちが悲劇の民であるという手前勝手な幻想に浸り続けたいことをなんとなく察知してるからではないでしょうか。殺人と男色の美しさを謳ったジャン・ジュネも社会から賞賛されるととたんに文学から手を引きました。「千年女優」の最後にもある「私、あの人に恋してる自分が好きなんだもん」とはまさにうまく恋愛という一種のヒステリーの的を得ています。ニーチェの「若いときからもてる男の想像力は犬以下である」というのは名言です。私だって現実の女がいかに汚く面どくさい物か知っています、しかし、まただからこそ、よりいっそう女性への憧れや幻想が強く、2次元の彼女たちを愛することができるのです。むしろなま物の女が言い寄ってくることほど私が恐れていることはありません。

 いい加減長くなったのでここで終えてもいいのですが、ちょっといいたいことがあるのでまだ終わりません。西洋諸国ではキリスト教が誕生してから存在し、アメリカでは今なお根強く、ヨーロッパでは何とか克服しつつある、そして日本では免れていたのに、地下鉄サリン事件以降徐々に蔓延しつつある病気、いわゆる「不幸の意識」の発展形で私は「現実教」と呼んでいます。自分の規範とずれたこの世界は嫌だという対自的意識の進化形なのですが、世界の方を自分の規範に無理やり同一化しようというやからです。つまり「理想を目指した現実」ではなくて「理想こそが現実で、現実こそが理想」という物です。私は何もすべての夢や希望をオナニーの道具として割り切れというのではありません。理想や志の無い政治もあってはならないと思います(しかし今の日本の政治はまともな規範も理想や志もかけています)。しかしかなわないけれども願い続けなければいけない夢と、かなえなければいけない夢は本質的に違います。恐らくこの区別がつかない人たちが現実教の信者なのでしょう。
 極端なたとえでは聖書の「汝隣人を愛せよ」という道徳的規範が、「隣人を愛するよう勤めるべき」から「皆隣人を愛するはず」という転換が起こり、世の中みんなおててをつないだお花畑だと無理やり認識するのです(特に私はこれをお花畑派と呼んでいます。)ところが世の中には度し難いどうしようもない奴がうようよしています。そういう連中がいる現実と対峙したときにあろうことかそういった連中を建前だけでなく本気で悪として抹殺し、自分たちは無理やりにでもお花畑の中にいようとします。
 日本では地下鉄サリン事件がありました。私はあの事件には、あの時代の中で流れていたどうしようもない閉塞感や不安感が何かしらのハルマゲドンを予期し、恐れ望んでいたという背景があったように思えます。オウム真理教はいつまでたってもハルマゲドンが起きないから、無理やり起こしてやろうとしました。結果やったことといえば高々地下鉄の中で毒ガスをまくといった、最終戦争としては情けない物でしたが、ただのテロ以上の恐怖が日本を包んだのを子供のころの記憶として覚えています。何故あれだけ人々が恐れたかということについて、私は日本人にオウム真理教と自分たちに何か近い物を感じていたからではないかとにらんでいます。そこで自分たちと本気で向き合えるかどうかが正念場ですが、日本人のしたことはオウムは悪であり抹殺せねばならないと、無理やり自分たちは違うんだと強がって見せただけです。
 ニルヴァーナやユートピアを実現しようとせずに現実を生きろというならまだ理解できます。しかし現実こそ素晴らしく夢や希望なのだというのでは、オウムとは数十人殺す程度の違いしかありません。どうも今の日本人は建前と希望と現実の使い分けというか、付き合い方にはへたくそな気がします。
 その現実教ですが具体的には「耳をすませば」が適当だと思います。この最悪な作品は、夢としてのフィクションとしてのあり方を拒絶しています。宮崎駿はこの映画を通して「若者よ、お前らはこういう青春を生きろ、青春とはこういうものなのだ」と現実にダイレクトに摩り替えさせようとします。私は宮崎駿とは付き合いはありませんが、宮崎駿がこんな青春を謳歌していないことだけは保証します。はっきり言ってこんな青春がかつて実在したか、そして可能なのかはかなり怪しい、というか無理です。しかしこの現実教の犠牲になった人は山ほどいます。
 さらに最近現実に恐ろしいのはお花畑派の人たちです。日本では主に信者がPTA等のクソババァ共ですが、先に述べたように私はこういう人たちは馬鹿にする一方で感謝するべきだと考えています。しかし彼女らが具体的に政治的行動に出るとなれば話は別です。彼女らは児童ポルノ法を以下のように改正しようとしています(さらに私は彼女らを現実教お花畑森山派とか単に森山派と呼んでいます)。

 1規制の対象となる児童ポルノの定義を絵や漫画といった非現実の児童を対象とした物に拡張する。
 2児童ポルノの単独所持を禁止する(現行の法律では製作販売は取り締まれる)

 私は児童ポルノ自体をよいといっているわけではありません。当然どんな酷いものなのかも予想がつきます。そういった犯罪を「無くそう」という志は当然大事です。しかしその理想は「かなえようと努力する」理想であって、「実現しよう」という理想ではありません。恐らく後者と見るのは犯罪がどうやってもなくならないという現実を受け入れられ無いという芯の弱い本性の現れでしょう。
 1に関しては最早言うまでも無く論外です。非現実に思いを馳せるのはもはや人の性です、こういった性を抜け道も残さず押さえつけてうまくいった例を私は知りません。
 2に関しては1と同様の理由です。ロリコンやぺドフィリアの存在を社会的建前として否定することならともかく、世の中にはそういった異常な、あるいは社会的に認められえない性癖を持った人間は確実に存在しますし、自然発生的に生まれるといってもよいでしょう。仮に児童ポルノを見ることによってロリコンに開眼する人が多くとも、当座のところ禁止したところで圧倒的な需要があるのもまた事実です。人間は自分の性的な欲望を満たすためならば、例え違法だとしても手段は問いません(お花畑派にはこれが認められないのでしょう)。むしろ押さえつけられるほど、実際に行動に移す方の圧力が強くなるでしょう。事実私は1が犯罪行為に当たるとしても、今の趣味を止めるつもりはさらさらありません
 またあれもダメこれもダメといって、何もかも違法化してうまくいった例もまたまれです。同程度の一個の犯罪を犯すのも二個の犯罪を犯すのも心理的には大差ないですから、犯罪行為の枠を広げるのは逆効果です。日本では大麻も覚せい剤も「ダメ。絶対。」で一緒くたにしています。しかし大麻で死んだ人間は私は知りませんが(混ぜ物で死ぬことはあるかもしれませんが)、覚せい剤で死んだり、廃人になった例はどれほどあるかわからないくらいです。大麻から覚せい剤やヘロインではまったく麻薬(覚せい剤は麻薬取締法ではなく覚せい剤取締り法の対象で法律的、薬学的には区別されています)の質が違うのに同じ扱いをしてしまったがために、売人がのろけに大麻を吸わせて、無知なのをいいことに覚せい剤にまで手を出させるなんて言うアホな事態も起きています。
 ロリコンを悪とする政治的規範には文句はありませんが、森山派の人たちは、六法全書を書き込んだら実行に移されるデスノートかなにかと勘違いしているのではないでしょうか?そんなくだらない世迷言に振り回される人がいること、実際の被害を抑えられるかどうかはわからないし、欧米の薬物事情を踏まえると逆効果にすらなりかねないことを理解しているのでしょうか。繰り返しますが私は児童ポルノを取り締まるなといっているわけではありません。例えば児童ポルノの顧客を警察がリストに挙げて監視しておく等の措置を取ったほうが、監獄化した社会にあっては、性犯罪の抑止にはよっぽど効果があるでしょうし、実際うちの大学の寮(全学連の活動拠点のひとつ)に警察が令状無しでがさ入れすることなどちょくちょくあります。実際に令状無しの捜査を明文化して認めるかどうかは別として、現場に実際にそのくらいの裁量を持たせることのほうが効果的でしょう。また法律の改正によってかかるコストを、被害にあった児童のケアに当てたほうがより有意義なのではないでしょうか。
 まぁこういった現実的な政治的判断が思いつかないあたりがお花畑派たるゆえんなのでしょう。実際に政治家としての職務を全うしたいのなら、自身の頭の中のお花畑をナパーム弾できれいさっぱり焼き払え。話はまずはそれからだ。


 No わいせつ no life

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2008年3月12日 (水)

コミュニケーションとはいかなるゲームか

 実家に帰省したり、資格の勉強やら、PCがトラぶったりなどでなかなか更新できず申し訳ありません。これを楽しみにしている物好きなどいるのか怪しいですが、予告した通りにコミュニケーションとはいかなるゲームなのかという話題について語ろうと思います。
 今回も大した内容でもないのに堅苦しくなるので次回は思いっきりくだらない「ロザリオとバンパイア」について語ろうと思います。

一般的な誤謬

 私がここで述べる「コミュニケーション」というのはバタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」に近いものであり、単なる伝達としての意味合いが強いコミュニケーションという単語を敢えて使います。

 一般的に文章(エクリチュール)や語りといった「コミュニケーション」についての浅薄な認識が広く持たれている様な気がします(気がしてるだけかもしれませんが)。その認識とはコミュニケーションとは、他人に自分の考えを伝える行為に尽きるという認識であり、誤謬です。確かに世の中にはそういった伝達のために発信される情報の方がはるかに多いのですが、私は本当に面白いものは単なる伝達以上のものだと思います。
 ギリシャ文化を研究していた時のニーチェは、プラトンについてのところで、本を書く意味は知識や思索が足りない読者を導いてやることではなく、書く事によって自分の思索を深めることであり、その付加的な可能性として読者も自身の思索を深めることができるかもしれないだけだと述べています(ちくま学芸文庫ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神より)。このニーチェの発想は後年の彼の生き様を暗示していると同時に、単なる伝達や啓蒙(説教)としては説明のつかない、数々の創作物の面白さの所以を的確に表現していると思います。
 具体的にコミュニケーションとはいかなるものなのかということを述べる前に、何故多くの人々が文章や語りといった行為を、単なる伝達行為として捉えようとするのかということについて私の見解を述べようと思います。
 今回もいつものように即自的、対自的という言葉を使います。誰しも子供のときは(あるいは大人になっても?)世界と自分とが溶け合っている認識を持っています(これを即自的といいます)。ところがあるとき世界と自分との違いを認識し、他人の存在を知ります(対自的といいます)。この「他人」はウラでは自分のことを馬鹿にしたり、嫌悪したりしているかもしれません。しかも人間は確固たる自我なるものを持っているわけではなく、他人の持つ自分への印象を自分に反映するという性質があります。結果自分のイメージを他人に完全にゆだねてしまうか、他人の心を操作しようとします。
 とどのつまり人は、他人を自分の操作可能なものにしようという欲求に常に駆られているということです(他人に自分のイメージをゆだねた人は、今度はそのイメージを守るために戦います)。そういう洗脳合戦に明け暮れる人たちにとっては、人生は他人にいかに自分の言うことを聞かせるかというゲームに過ぎません(口ではどんなきれいな道徳を口にしようともです)。他人の問題に還元されえないようなことを話す人を、「独りよがり」と言って攻撃する人がよくいますが、これにはその人が自分の操作できないところにいることへの憎しみが働いているといえましょう。しかしながら本当に面白い物は「独りよがり」な物からしか得られないというのが私の経験による事実です。

 コミュニケーションとはいかなる行為か

 バタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」についての私の見解を述べようと思います。(自分の目でバタイユが何を言っているのかを確かめたい人は『無神学大全Ⅱ 内的体験』(平凡社)を読んでみてください)
 人間の精神的活動の中で、彼がもっとも尊んでいたのは絶頂へと至ろうとすることです。それは自分の体を引き裂いて(供犠)、一皮剥けた自分と世界のありようへと向かうことであり、そこでは今ある自分とそうでない異物との混ざり合いが起こっているのです。この焼けるような苦しみと陶酔が伴う行為こそが交流なのです。つまり交流とは異物(一皮剥けた自分)との交じり合いと、それによる変化のことです。
 人間には誰しも自己顕示欲や他人を操作したいという欲求があります。私の考えるコミュニケーションはそういった欲望の力をかりて、バタイユの言う交流を図ることです。単純な自己顕示欲や、他人と操ろうという建前をおいて新しい自分へと至ろうとするのです。コミュニケーションとして創作行為を捉えると、話したり書いたりすることで建前として他人に言い聞かせる体裁をとりますが、その実狙っているのはもやもやとした自分の存在を異物として吐き出し、それを消化することで新しい有り様の自分へといたることなのです。私は創作行為を支えるのは単なる自己顕示欲を超えたこのような欲求だと思います。(自己顕示欲はそのための道具ということです)
 また他人の言説や創作物を受け取り感じることもわたしはコミュニケーション足りえると思います。単純に相手の伝えたいことを理解するという単なる伝達を(これにも実は他人を操作してやろうという欲が働いています)建前として掲げていますが、運がよければ自分も新しい自分へと至れるかもしれませんし、異物と混ざり合い格闘することで相手とは別の方向に変化することができるかもしれないからです。
 私はこのようにコミュニケーションを捉えています。実際誰かと分かり合ったところで安心こそすれども面白いことなんて一つもありませんし、コミュニケーションを単にコンセンサスを得るための行為とするならば、所詮は自分の言っていることを相手に言い聞かせる洗脳ゲームでしかありません。少なくとも私はそんなものには飽き飽きしています(実際世の中には建前ではなく本当に洗脳ゲームに明け暮れる人たちがたくさんいます)。

コミュニケーションとはいかなるゲーム(遊び)か

 ここで表題になります。「いかに物事をたのしむか」でも述べたように私は「面白い」を価値基準にしています。このコミュニケーションも面白いゲームだと思います。建前として相手の伝えたいことを理解したり、相手に何かを伝えたりといった洗脳合戦の体裁をとり、その振るまいの中でどう戦略的にコミュニケーションをするかという営みは非常に面白い物です。
 例えばアニメや漫画は建前としてエンターテイメントという体裁があります。当然それにのっとって作品は作られます。しかし中にはその単純な娯楽の枠の中で私の言う意味でのコミュニケーションを図ろうという面白い物があります。それを受けて娯楽作という建前も踏まえて受け手もコミュニケーションを図るのであり、それはいかに面白く作品を楽しむかという受け手の熱意によって生まれます(当然作り手にとって好ましいような楽しみ方にならないこともよくあります)。
 このような独りよがりで戦略的なゲームがつまらないわけがありません。

 



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