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2008年3月12日 (水)

コミュニケーションとはいかなるゲームか

 実家に帰省したり、資格の勉強やら、PCがトラぶったりなどでなかなか更新できず申し訳ありません。これを楽しみにしている物好きなどいるのか怪しいですが、予告した通りにコミュニケーションとはいかなるゲームなのかという話題について語ろうと思います。
 今回も大した内容でもないのに堅苦しくなるので次回は思いっきりくだらない「ロザリオとバンパイア」について語ろうと思います。

一般的な誤謬

 私がここで述べる「コミュニケーション」というのはバタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」に近いものであり、単なる伝達としての意味合いが強いコミュニケーションという単語を敢えて使います。

 一般的に文章(エクリチュール)や語りといった「コミュニケーション」についての浅薄な認識が広く持たれている様な気がします(気がしてるだけかもしれませんが)。その認識とはコミュニケーションとは、他人に自分の考えを伝える行為に尽きるという認識であり、誤謬です。確かに世の中にはそういった伝達のために発信される情報の方がはるかに多いのですが、私は本当に面白いものは単なる伝達以上のものだと思います。
 ギリシャ文化を研究していた時のニーチェは、プラトンについてのところで、本を書く意味は知識や思索が足りない読者を導いてやることではなく、書く事によって自分の思索を深めることであり、その付加的な可能性として読者も自身の思索を深めることができるかもしれないだけだと述べています(ちくま学芸文庫ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神より)。このニーチェの発想は後年の彼の生き様を暗示していると同時に、単なる伝達や啓蒙(説教)としては説明のつかない、数々の創作物の面白さの所以を的確に表現していると思います。
 具体的にコミュニケーションとはいかなるものなのかということを述べる前に、何故多くの人々が文章や語りといった行為を、単なる伝達行為として捉えようとするのかということについて私の見解を述べようと思います。
 今回もいつものように即自的、対自的という言葉を使います。誰しも子供のときは(あるいは大人になっても?)世界と自分とが溶け合っている認識を持っています(これを即自的といいます)。ところがあるとき世界と自分との違いを認識し、他人の存在を知ります(対自的といいます)。この「他人」はウラでは自分のことを馬鹿にしたり、嫌悪したりしているかもしれません。しかも人間は確固たる自我なるものを持っているわけではなく、他人の持つ自分への印象を自分に反映するという性質があります。結果自分のイメージを他人に完全にゆだねてしまうか、他人の心を操作しようとします。
 とどのつまり人は、他人を自分の操作可能なものにしようという欲求に常に駆られているということです(他人に自分のイメージをゆだねた人は、今度はそのイメージを守るために戦います)。そういう洗脳合戦に明け暮れる人たちにとっては、人生は他人にいかに自分の言うことを聞かせるかというゲームに過ぎません(口ではどんなきれいな道徳を口にしようともです)。他人の問題に還元されえないようなことを話す人を、「独りよがり」と言って攻撃する人がよくいますが、これにはその人が自分の操作できないところにいることへの憎しみが働いているといえましょう。しかしながら本当に面白い物は「独りよがり」な物からしか得られないというのが私の経験による事実です。

 コミュニケーションとはいかなる行為か

 バタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」についての私の見解を述べようと思います。(自分の目でバタイユが何を言っているのかを確かめたい人は『無神学大全Ⅱ 内的体験』(平凡社)を読んでみてください)
 人間の精神的活動の中で、彼がもっとも尊んでいたのは絶頂へと至ろうとすることです。それは自分の体を引き裂いて(供犠)、一皮剥けた自分と世界のありようへと向かうことであり、そこでは今ある自分とそうでない異物との混ざり合いが起こっているのです。この焼けるような苦しみと陶酔が伴う行為こそが交流なのです。つまり交流とは異物(一皮剥けた自分)との交じり合いと、それによる変化のことです。
 人間には誰しも自己顕示欲や他人を操作したいという欲求があります。私の考えるコミュニケーションはそういった欲望の力をかりて、バタイユの言う交流を図ることです。単純な自己顕示欲や、他人と操ろうという建前をおいて新しい自分へと至ろうとするのです。コミュニケーションとして創作行為を捉えると、話したり書いたりすることで建前として他人に言い聞かせる体裁をとりますが、その実狙っているのはもやもやとした自分の存在を異物として吐き出し、それを消化することで新しい有り様の自分へといたることなのです。私は創作行為を支えるのは単なる自己顕示欲を超えたこのような欲求だと思います。(自己顕示欲はそのための道具ということです)
 また他人の言説や創作物を受け取り感じることもわたしはコミュニケーション足りえると思います。単純に相手の伝えたいことを理解するという単なる伝達を(これにも実は他人を操作してやろうという欲が働いています)建前として掲げていますが、運がよければ自分も新しい自分へと至れるかもしれませんし、異物と混ざり合い格闘することで相手とは別の方向に変化することができるかもしれないからです。
 私はこのようにコミュニケーションを捉えています。実際誰かと分かり合ったところで安心こそすれども面白いことなんて一つもありませんし、コミュニケーションを単にコンセンサスを得るための行為とするならば、所詮は自分の言っていることを相手に言い聞かせる洗脳ゲームでしかありません。少なくとも私はそんなものには飽き飽きしています(実際世の中には建前ではなく本当に洗脳ゲームに明け暮れる人たちがたくさんいます)。

コミュニケーションとはいかなるゲーム(遊び)か

 ここで表題になります。「いかに物事をたのしむか」でも述べたように私は「面白い」を価値基準にしています。このコミュニケーションも面白いゲームだと思います。建前として相手の伝えたいことを理解したり、相手に何かを伝えたりといった洗脳合戦の体裁をとり、その振るまいの中でどう戦略的にコミュニケーションをするかという営みは非常に面白い物です。
 例えばアニメや漫画は建前としてエンターテイメントという体裁があります。当然それにのっとって作品は作られます。しかし中にはその単純な娯楽の枠の中で私の言う意味でのコミュニケーションを図ろうという面白い物があります。それを受けて娯楽作という建前も踏まえて受け手もコミュニケーションを図るのであり、それはいかに面白く作品を楽しむかという受け手の熱意によって生まれます(当然作り手にとって好ましいような楽しみ方にならないこともよくあります)。
 このような独りよがりで戦略的なゲームがつまらないわけがありません。

 



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