« コミュニケーションとはいかなるゲームか | トップページ | いやぁ~、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ »

2008年3月19日 (水)

ロザリオとバンパイア お花畑を焼き払え!

今期のアニメもいろいろなアニメがありますね。今月で終わるアニメ、終わらないアニメいろいろあります。
 ほのぼのとしたいい感じの空気を出している「のらみみ」、ますます眠くなる「ARIA」の三期、漫画黎明期の演出なのに今観ると物凄い斬新な「墓場鬼太郎」、新房テイスト全開な「俗・絶望先生」、富山最強伝説を作り出した「true tears」と「PERSONA」等々いろいろです。

 それらの中でひときわくだらなく、私のツボを刺激するのが「ロザリオとバンパイア」です。(この言い方だと上に挙げたアニメもくだらないみたいですね、違いますよ)
 脇役がやたら大御所だったり、突然作画がすごいんだかすごくないんだかわからないものになったり、バンクの意味不明なハイキックや、OPとEDがどう見ても逆だったり、あとやっふふ~んだったりといろいろと魅力があります。しかし何より一番の魅力がそのお馬鹿なお下劣要素でしょう。もうこれでもかというくらいパンツを見せてくれるし、ロリから巨乳、ヤンデレと幅場広いニーズに対応したハーレムを展開してくれてます。
 もう最高にくだらないです(笑)、ありがとうございます!
 さて私はこのアニメをわざわざ夕方に見ています(大学が終わってからです)。なぜならこの時間帯がもっともこのアニメが「わいせつ」になる時間だからです。

 三島由紀夫の「不道徳教育講座」の「桃色の定義」という回で、サルトルの思想を引き合いにしてわいせつとは何かと述べています。ここでさらに私がそれを引き合いに出そうと思います。
 物事を「品の良いもの」と「品の良くない物」に分けると、「わいせつなもの」は後者になります。「品のあるもの」とは内側に自由を秘めているが、その必然性が光で照らされているものです。三島は品のあるものの例にバレリーナの踊りを挙げています。バレリーナは自由に舞っているように見え、しかし同時にある種の予定調和な様式美があります。つまりそれ自体に一個の存在としての自立と、あるべきところにあるべきものがあるといった必然性があるものを「品のある物」としているのです。洗練された生き物のように動く機械(エヴァの動くビルみたいのです)の機能美や、世界遺産の建築物のような様式美、漫才のボケとツッコミのようなものも品のよいものに入れてよいと思います。
 また「品の良くない物」はそうでない物です。たとえば銃をもった兵隊の洗練された動きは訓練の様子では品の良いものですが、子供に銃を向けていては品が悪い物になります。英語もとちりながらしゃべられると品が悪く感じますが、流暢にしゃべると格好良くすらあり品がよいでしょう。特にあるべきところにあるべきものが無い、あるいはあってはならないものがあってはならないところにあるのは品のない物です。とくにわいせつはそれに性的なニュアンスが入るといったところでしょう。
 ミロのビーナスやギリシャのアポロ像は美術館に飾ってあれば「芸術」として品の良いものですが、辛気臭いお葬式の会場においておけば猥褻になるでしょう。
 三島由紀夫は、友である澁澤龍彦が翻訳したサドの「悪徳の栄え」が猥褻物としてつるし上げられたいわゆる猥褻裁判で、「猥褻は観念的である」として彼を弁護したのは有名な話です。ただ彼の「わいせつ」によれば女子供の穴という穴を犯し、殺し、バラバラにして火の中に放り投げるような「悪徳の栄え」は、あるべきところにあるべきものがありのままに描かれた「チャタレイ夫人の恋人」とは違い、明らかに猥褻です。マルキ・ド・サドだって、自分を牢獄に追いやったキリスト教の糞坊主どものはびこる世界に、徹底的に糞をひりかけてやるために「悪徳の栄え」を書いたのですから猥褻の権化のようなものです。
 この裁判は澁澤龍彦の弁護に三島由紀夫のほかに大江健三郎や遠藤周作といった大物作家が名を連ねた正に「お祭り」でした。大江健三郎は単純に憲法に保障された表現の自由を守るために闘ったのでしょうが、当の澁澤龍彦は堂々と裁判を遅刻したり欠席したりとしているところを見ると、自分のやったことが違法であり、裁判も勝ち目が無いことをなんとなくわかっていたような気がします。澁澤本人は「性器が描かれていれば猥褻である」といったくだらない理屈立てしかできない馬鹿な法律家どもへのムカツキを単純に爆発させたかっただけなのでしょう、まさに裁判自体が「法の正義」や「法の真実」といったたわごとに糞をぶちまけるわいせつなのです。

 話がそれましたが私は猥褻を、あってはならないとされているところに存在するエロと捉えています。つまり夕方の家族がみんなでご飯を食べているときに、テレビでおっぱいがポロリとするような素晴らしい事態をわいせつと呼びます。だから私は「ロザリオとバンパイア」がわいせつになる夕方を狙って観ているのです。
 私はこのブログで散々「かくあるべきである」と「かくある」とが混同した認識である「規範」と、「即自的」「対自的」という言葉を使って、辛く苦しい此岸(この世)と夢見る彼岸(ここではないどこか、あるいはあの世)の狭間でいかに人間が苦しむかということを語ってきたつもりです。まぁわかりやすく言えば「こうなってほしい」という夢や理想とどうにもならない現実とのギャップで苦しむことです。また人間は生きている以上はここではないどこかを夢見ながら辛くつまらない此岸で生きていく(そうしないと生きていけない)ということものべました。
 エロを楽しむその根底には人間、特に男の本能に完全にビルトインされた性欲があります。しかしエロは単純に性欲にはとどまりません。彼岸であるところの女性に、自分が抱く幻想でいかにより楽しむかという非常に高度なゲームであります。そして人間の歴史はセックスや性器といった性的なものを汚い物として日常生活から排除してきました。とくにそれを熱心に進めたのがキリスト教で、社会が発達するとセクシュアリティも監獄に閉じ込めるために、汚い物として覆い隠す必要が出てくるのです。このどうにもならないつまらない現実の性を抱えて生きつつ、エロを夢見て人は生きていくのです。(それをするなというのは去勢しろといってるようなものです)エロがわいせつ足りえる空間でエロを楽しむ、つまりわいせつを楽しむことで、よりそのエロへの幻想に入り込みやすく、そして同時に憎たらしい世界への復讐感情と背徳感を同時に満足することのできるのです。要するにわいせつは最高に面白いエロだということです。
 よく「少年誌での乳首はエロ漫画の乳首とはありがたみが違う」(by大暮維人)とかいったり、アフリカの部族の女性の裸が体型云々は別としてエロくないのは、エロ漫画の世界やアフリカの部族等の世界ではむしろ服を着ていないのが普通ですから(笑)、乳首はエロであってもわいせつではありませんが、少年誌の中では乳首はわいせつだということです。アダルトビデオは見る前が一番楽しいのはそれに期待しているのもあるでしょうが、それを期待することがわいせつだからじゃないでしょうか。エロ本が散らかった一人暮らしの部屋で見るより、親の目を盗んでこそこそ観るのが一番楽しく、何より燃えます
 またわいせつを楽しむためにはスケベでふしだらな物はけしからんという、ジジィやババァがいてくれないとそもそもわいせつという前提が崩れてしまうのでそういった人たちが必要なのも事実です。私はそういった古きよき人たちに感謝する一方、思いっきり馬鹿にします。なぜなら彼らの存在には馬鹿にするという素敵な使い道があるからです。
 私個人に限らずわいせつなくして近代社会、とりわけ日本は成立しないといって過言ではないと思います。なんかの歌にあったように「夢を見るのは人に生まれたから」であり、人間を夢から切り離すのはあまりに酷です。もともと日本がほかの国より優れていたのは政治的な規範や建前が厳しくある一方、個人の彼岸への夢にはある程度お目こぼしがあったことです。
 また一つ勘違いしないでもらいたいのはこういった、わいせつなどの彼岸への夢は現実に実現するべき物ではない、そして実現されないからこそ面白いのです。イスラエルのユダヤ人がいつまでたってもパレスチナ人を敵にしたがっている、あるいは嘆きの壁を直そうとはしないのは(現実に直そうというバカもいますが)、夢の都エルサレムを永遠に求め続ける対象にとどめ、自分たちが悲劇の民であるという手前勝手な幻想に浸り続けたいことをなんとなく察知してるからではないでしょうか。殺人と男色の美しさを謳ったジャン・ジュネも社会から賞賛されるととたんに文学から手を引きました。「千年女優」の最後にもある「私、あの人に恋してる自分が好きなんだもん」とはまさにうまく恋愛という一種のヒステリーの的を得ています。ニーチェの「若いときからもてる男の想像力は犬以下である」というのは名言です。私だって現実の女がいかに汚く面どくさい物か知っています、しかし、まただからこそ、よりいっそう女性への憧れや幻想が強く、2次元の彼女たちを愛することができるのです。むしろなま物の女が言い寄ってくることほど私が恐れていることはありません。

 いい加減長くなったのでここで終えてもいいのですが、ちょっといいたいことがあるのでまだ終わりません。西洋諸国ではキリスト教が誕生してから存在し、アメリカでは今なお根強く、ヨーロッパでは何とか克服しつつある、そして日本では免れていたのに、地下鉄サリン事件以降徐々に蔓延しつつある病気、いわゆる「不幸の意識」の発展形で私は「現実教」と呼んでいます。自分の規範とずれたこの世界は嫌だという対自的意識の進化形なのですが、世界の方を自分の規範に無理やり同一化しようというやからです。つまり「理想を目指した現実」ではなくて「理想こそが現実で、現実こそが理想」という物です。私は何もすべての夢や希望をオナニーの道具として割り切れというのではありません。理想や志の無い政治もあってはならないと思います(しかし今の日本の政治はまともな規範も理想や志もかけています)。しかしかなわないけれども願い続けなければいけない夢と、かなえなければいけない夢は本質的に違います。恐らくこの区別がつかない人たちが現実教の信者なのでしょう。
 極端なたとえでは聖書の「汝隣人を愛せよ」という道徳的規範が、「隣人を愛するよう勤めるべき」から「皆隣人を愛するはず」という転換が起こり、世の中みんなおててをつないだお花畑だと無理やり認識するのです(特に私はこれをお花畑派と呼んでいます。)ところが世の中には度し難いどうしようもない奴がうようよしています。そういう連中がいる現実と対峙したときにあろうことかそういった連中を建前だけでなく本気で悪として抹殺し、自分たちは無理やりにでもお花畑の中にいようとします。
 日本では地下鉄サリン事件がありました。私はあの事件には、あの時代の中で流れていたどうしようもない閉塞感や不安感が何かしらのハルマゲドンを予期し、恐れ望んでいたという背景があったように思えます。オウム真理教はいつまでたってもハルマゲドンが起きないから、無理やり起こしてやろうとしました。結果やったことといえば高々地下鉄の中で毒ガスをまくといった、最終戦争としては情けない物でしたが、ただのテロ以上の恐怖が日本を包んだのを子供のころの記憶として覚えています。何故あれだけ人々が恐れたかということについて、私は日本人にオウム真理教と自分たちに何か近い物を感じていたからではないかとにらんでいます。そこで自分たちと本気で向き合えるかどうかが正念場ですが、日本人のしたことはオウムは悪であり抹殺せねばならないと、無理やり自分たちは違うんだと強がって見せただけです。
 ニルヴァーナやユートピアを実現しようとせずに現実を生きろというならまだ理解できます。しかし現実こそ素晴らしく夢や希望なのだというのでは、オウムとは数十人殺す程度の違いしかありません。どうも今の日本人は建前と希望と現実の使い分けというか、付き合い方にはへたくそな気がします。
 その現実教ですが具体的には「耳をすませば」が適当だと思います。この最悪な作品は、夢としてのフィクションとしてのあり方を拒絶しています。宮崎駿はこの映画を通して「若者よ、お前らはこういう青春を生きろ、青春とはこういうものなのだ」と現実にダイレクトに摩り替えさせようとします。私は宮崎駿とは付き合いはありませんが、宮崎駿がこんな青春を謳歌していないことだけは保証します。はっきり言ってこんな青春がかつて実在したか、そして可能なのかはかなり怪しい、というか無理です。しかしこの現実教の犠牲になった人は山ほどいます。
 さらに最近現実に恐ろしいのはお花畑派の人たちです。日本では主に信者がPTA等のクソババァ共ですが、先に述べたように私はこういう人たちは馬鹿にする一方で感謝するべきだと考えています。しかし彼女らが具体的に政治的行動に出るとなれば話は別です。彼女らは児童ポルノ法を以下のように改正しようとしています(さらに私は彼女らを現実教お花畑森山派とか単に森山派と呼んでいます)。

 1規制の対象となる児童ポルノの定義を絵や漫画といった非現実の児童を対象とした物に拡張する。
 2児童ポルノの単独所持を禁止する(現行の法律では製作販売は取り締まれる)

 私は児童ポルノ自体をよいといっているわけではありません。当然どんな酷いものなのかも予想がつきます。そういった犯罪を「無くそう」という志は当然大事です。しかしその理想は「かなえようと努力する」理想であって、「実現しよう」という理想ではありません。恐らく後者と見るのは犯罪がどうやってもなくならないという現実を受け入れられ無いという芯の弱い本性の現れでしょう。
 1に関しては最早言うまでも無く論外です。非現実に思いを馳せるのはもはや人の性です、こういった性を抜け道も残さず押さえつけてうまくいった例を私は知りません。
 2に関しては1と同様の理由です。ロリコンやぺドフィリアの存在を社会的建前として否定することならともかく、世の中にはそういった異常な、あるいは社会的に認められえない性癖を持った人間は確実に存在しますし、自然発生的に生まれるといってもよいでしょう。仮に児童ポルノを見ることによってロリコンに開眼する人が多くとも、当座のところ禁止したところで圧倒的な需要があるのもまた事実です。人間は自分の性的な欲望を満たすためならば、例え違法だとしても手段は問いません(お花畑派にはこれが認められないのでしょう)。むしろ押さえつけられるほど、実際に行動に移す方の圧力が強くなるでしょう。事実私は1が犯罪行為に当たるとしても、今の趣味を止めるつもりはさらさらありません
 またあれもダメこれもダメといって、何もかも違法化してうまくいった例もまたまれです。同程度の一個の犯罪を犯すのも二個の犯罪を犯すのも心理的には大差ないですから、犯罪行為の枠を広げるのは逆効果です。日本では大麻も覚せい剤も「ダメ。絶対。」で一緒くたにしています。しかし大麻で死んだ人間は私は知りませんが(混ぜ物で死ぬことはあるかもしれませんが)、覚せい剤で死んだり、廃人になった例はどれほどあるかわからないくらいです。大麻から覚せい剤やヘロインではまったく麻薬(覚せい剤は麻薬取締法ではなく覚せい剤取締り法の対象で法律的、薬学的には区別されています)の質が違うのに同じ扱いをしてしまったがために、売人がのろけに大麻を吸わせて、無知なのをいいことに覚せい剤にまで手を出させるなんて言うアホな事態も起きています。
 ロリコンを悪とする政治的規範には文句はありませんが、森山派の人たちは、六法全書を書き込んだら実行に移されるデスノートかなにかと勘違いしているのではないでしょうか?そんなくだらない世迷言に振り回される人がいること、実際の被害を抑えられるかどうかはわからないし、欧米の薬物事情を踏まえると逆効果にすらなりかねないことを理解しているのでしょうか。繰り返しますが私は児童ポルノを取り締まるなといっているわけではありません。例えば児童ポルノの顧客を警察がリストに挙げて監視しておく等の措置を取ったほうが、監獄化した社会にあっては、性犯罪の抑止にはよっぽど効果があるでしょうし、実際うちの大学の寮(全学連の活動拠点のひとつ)に警察が令状無しでがさ入れすることなどちょくちょくあります。実際に令状無しの捜査を明文化して認めるかどうかは別として、現場に実際にそのくらいの裁量を持たせることのほうが効果的でしょう。また法律の改正によってかかるコストを、被害にあった児童のケアに当てたほうがより有意義なのではないでしょうか。
 まぁこういった現実的な政治的判断が思いつかないあたりがお花畑派たるゆえんなのでしょう。実際に政治家としての職務を全うしたいのなら、自身の頭の中のお花畑をナパーム弾できれいさっぱり焼き払え。話はまずはそれからだ。


 No わいせつ no life

|

« コミュニケーションとはいかなるゲームか | トップページ | いやぁ~、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ »

アニメ・コミック」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/504209/40524492

この記事へのトラックバック一覧です: ロザリオとバンパイア お花畑を焼き払え!:

« コミュニケーションとはいかなるゲームか | トップページ | いやぁ~、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ »