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2008年8月

2008年8月 6日 (水)

秋葉原通り魔事件

 やっと院試が終わりました。まぁ何とかなるでしょう。あとは資格の試験勉強をしなければいけないのに、ハイデガーの『芸術の根源』なんて本を読み始めたり、エロ漫画を買いあさったりでぜんぜん勉強に実が入らない・・・

 あと児童ポルノ法改正の反対の有志になりました。大学でビラを貼ってくれとの依頼があったので気が向いたらやってみます。

 いまさらですが秋葉原の通り魔事件について話します。なぜ今かというと、みんな忘れたころだろうから、あえて旬をはずしてみます。この手の事件は流行に乗って語るとどうしようもない文章になるからです。

 秋葉原で起きた通り魔事件ですが、この事件の加藤容疑者が携帯電話で書き込んでいた文章を読んだときに、よくある凶悪事件とは違う非常にクリアーな犯人の動機が理解できたような気がします。この事件は今の日本の閉塞的な状況があると思います(私の勝手な妄想ではありますが)。なのでいつものように私の勝手な見立てでではありますが、この事件を今の日本の状況に当てはめてみようと思います。

 今の日本の根本的な問題は「規範」にあるというのが私の持論です。国家が人々を社会の監獄の中に閉じ込めているのに、恐らく理由など無いのでしょう。仮に理由があったとしても日本国憲法にあるような国民を幸福にするためのモノではないでしょう。そして国という牧場を経営するためには家畜たちにもやもやとした幸せな未来や、安心感や承認を与えさせる必要があるわけです。これが「規範」としての希望です。
 こんな「希望」は何の保証もない無責任なホラなのですが、社会が発展途上で不完全な物という共通の前提があれば機能してくれます。焼け野原から立ち上がっていくという共通前提のあった戦後の日本がそうでした。希望のミソは、未来が不透明であることと、希望の求めるところ自体がなんなのかよくわからないけど素晴らしいらしいものであるという点です。人間は所詮たんぱく質の塊ですから、その一生なんてたかが知れてます、どのみち惨めに朽ちて死ぬしかないので、希望を持たせるには具体的な未来のことなんて考えさせない方がいいわけです。

 しかし今の日本はかつてとは違い未来は非常にクリアーであり、それはどう考えてもお世辞にも素晴らしいものとはいえませんし、個人の将来のレベルでも「勝ち組」「負け組」というクリアーで即物的な幸福感しかありません。この期に及んで「明日はきっといいことあるよ」とか抜かす奴はぶっ殺した方がよいでしょう。
 まぁウソも方便というようにその「希望」というホラを信じてそこそこ楽しくやっていければそれで人間幸せなのでしょうし、きっと幸せなんてその程度の物です。しかしいまの社会の刷り込む規範は信じて「そこそこ楽しく」やっていけない規範です、はなっからうそだとバレバレなホラです。これは今の深刻な政治不信、しいては社会不振とニヒリズムを考えればわかるでしょう。
 小泉元首相は「痛みに耐えて」と熱弁をふるいました、痛みに耐えて希望の未来へと続くのでしょうが、結局うまい汁をすすったのは外資系ファンドの連中と経団連のクソどもです。今も安倍元首相の「鬱くしい国」路線は続行中です。
 加藤容疑者に関していえば、経済的な面では客観的にも彼には「希望」はありませんでした。昇進昇給の当てが一切無い飼い殺しの労働環境、完全に人間性を破壊し「希望」もクソもあったモンじゃありません。

 またかれは非モテでした、これが非常に重要な点です。人間はここではないどこかである彼岸を夢見る生き物です、特に男にとってはそれが女です。
 三島由紀夫が『不道徳教育講座』で「童貞を一刻も早く捨てるべし」と述べたのは童貞にとって女はとてもすばらしい、きらきら輝いたものでそれを手に入れれば(すなわちセックスすれば)絶頂に到達でき、自分の不完全なものが補完されるという下品な妄想を抱いているから、こんなロマンに満ちた「希望」をすてて「何だこんなものか」という現実に返す必要があるからです。男は希望は捨てて「夢」を見るようになるのです。
 昔は男は誰もがなんだかんだ言って女と一緒になれた(人間関係の仕組みがそれをセッティングするようにできていました)のですが、現在は童貞はほうっておけばずっと童貞です。マスコミはほとんど報道しませんが、実は非モテといわれる人々が増加していることは重大かつ深刻な社会問題です。彼らが増えると、結婚率が減り少子化が進み、社会的なリソースに恵まれない一生を独身ですごす人々が増え、そして何より「俺には彼女がいない」というルサンチマンを抱えた男が増加することになります。
 また非モテはどうしても一生を孤独にすごさざるを得ません。常に他人におびえそのくせ他人をさびしがる人々(人間とはこういうものです)がなんらコミュニティから囲まれないという今の日本の現状は本気でどうにかしたほうがよいと思います。
 東浩紀がこの事件をテロ(本当は勝谷が私の知る限り一番早くこの事件をテロと位置づけていますが、彼がこの事件の本質をどの程度理解しているのかはわかりません)としていますが、私はテロという言葉を恐怖によるコントロールとして使いたいので、私の言葉で言うとこの事件はルサンチマンからくる社会への復讐であり、わかりやすくいうと駄々です。
 疎外感を持っている人間はメディアで取り上げらないですがかなり多くいるでしょう(具体的にはわかりません)、派遣労働法は変えるべきですが、希望の喪失と非モテという問題を解決しなければその法律を変えた程度ではこのような事件はおき続けると思います。

 また2chの掲示板等では加藤容疑者に共感する声が多く、またそれと同じくらいにこの事件を非難する声があります。私としては加藤容疑者が死刑になろうがなるまいが正直どうでもいいです。また声高々に「許せない」と叫ぶ気もありません。犯人よりもこんなテロが起きなければ非正規雇用が増加することを危機として認識できないマスコミや政治家どもに対して怒りと失望を向けてしまいます。また私はとっくの昔から司法の正義なんてものは信じてませんし、知りもしない人間が容疑者も含めて高々数人死んだ程度ではなんとも思いません。加藤容疑者に怒りがあるとすれば事件を日本の文化の最後の砦の秋葉原で起こしたことくらいです。もし霞ヶ関や六本木ヒルズやネズミの国やヴィーナスポートで起こしていれば拍手していたでしょう。
 
 こういう駄々を肯定するかといえば、日本という社会を守る立場から言えば当然否定しますが、正直こんな国や馬鹿な国民は守る価値があるのか私には疑問ですので簡単には否定できません。はっきりいえるのは責める気にはなれないということです。私の中にも彼が抱いたような絶望やルサンチマンは紛れも無く存在しますし、こういった状況の中で「生きる」というゲームは社会が認めるルールの中では絶対に勝てることのできない糞ゲーです。勝てないゲームをしなければならないのが道理ならば無理を通すことを否定はできないでしょう。社会的な道徳や幸福観という勝てないルールで戦ってはだめなので、暴力というルールを通すのもアリです。
 まぁ国内最強の暴力機関である警察には勝てないのでそれも勝てないルールですが、このまま日本の現状を放置しておけば警察どころかこの国は確実につぶれます。
 ガンダムのキャラクターデザインで有名な安彦良和氏はアニメージュで、今はひどい時代だけれど、これからよい方向へ向かうだろうし、若者の絶望はわからないでもないが、人として許されないことだけはしないでくれと述べていました。学生運動をしていた安彦氏だから思うところがいろいろとあるのでしょうが、人として扱われない阻害された人間に、人としての道徳を要求するのは虫が良すぎるのではないでしょうか。

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