アニメ・コミック

2008年10月24日 (金)

暗黒の時代が始まりますね

 だいぶ更新をサボっていまい、期待していた人がいれば申し訳ありません。
 さて今期のアニメですが、なんというか微妙です。強いて言うなら、妖奇士でほされたとおもっていた錦織博氏が「とある魔術の禁書目録」で復帰したことでしょ う。ただ第2話でスプリンクラーでルーン文字を消したくせに、炎の魔人みたいなの(丁寧に3000度もあるといってました)がいるくせにスプリンクラーが 作動しないというのにがっかりしてしまいました。

 夏ごろまで妙な不安と閉塞感を漠然と感じていましたが、やはりサブカルチャーは時代の空気を体現するのでしょう。エヴァの劇場版ともののけ姫とブレンパワードいう最高に狂っていたアニメが公開されたのは1997年という99年よりも世紀末臭が漂う年でした。そしてまったく先が見えないくせに、未来が明るくないということだけがわかりきっている21世紀に『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』の不気味な空気に下塗りされた2作品が公開されました。

 パトレイバー2は冷戦構造の中で日本が上手く立ち回ることで、他国での戦争による繁栄と、その現実から目を背ける欺瞞に満ちた平和を享受していたということが前提にありました。しかし冷戦が終わりグローバル化が進むにつれ荒川の言う「罰」を受ける時がきまたようです。
 虚栄の蜃気楼が長続きはしないのにもかかわらず、その蜃気楼の無菌室の中で培養されたのがロストジェネレーション以下の世代です。上昇していくサクセスストーリーという虚構と、ずっと変わらずに惨めに老いて死んでいくしかないという現実の間で板ばさみになって、いつか悲惨な終わりを告げる終わりなき日常を生きているわけです。明らかに活気のない若者に対しいかに説教してやろうかということで押井守と宮崎駿が(本当は庵野秀明が加わる1997年以来の熱い展開のはずだったのでしょうが、案の定間に合いませんでした)名乗りを挙げたわけです。
 押井監督のスカイクロラは、監督が最も苦手とするラブストーリーでした。押井監督は日常がいかにつまらないかというのは得意ですが、逆に情念のぶつかり 合いの情愛を描くのは不得手な印象があります。押井監督はパトレイバー2で偽善の平和と、現実の戦争という対立には物語として回答を出しましたが、都市の 中で人々がたたずむ幻を超越した彼岸の人である柘植にどう対峙するのかという要の所では、結局南雲さんと柘植のラブストーリーでお茶を濁してしまいまし た。パトレイバーの時は逃げであったラブストーリーを今回は敢えて真正面からぶつかったという感じです。
 現実なんてぶっちゃけつまらないものです。うんざりするほどつまらない現実を生きる支えとしては「ささやかな」幸せしかないわけです。押井監督はこのささやかな幸せとして恋愛を持ってきたのでしょう(個人的には支えのなさそうなミツヤさんとあり地獄のような情愛を演じてみたいところです)。延々ともろい平和を維持するために、出来レースの絶対に負けないし、絶対に勝てない戦争を延々とやらされ続け、たとえ死んでも生き返らされる無間地獄のような日常に、ささやかなあきらめに似た希望を得る物語を上手くつくることが出来たと思います。現実には完全に絶望しかないとは捨てきりたくはないが、かといって未来は希望にあふれているなどというたわごとはそれ以上にやりたくないという要望を上手くかなえることが出来たでしょう。

 スカイクロラはベタに絶望的な閉塞感と弛緩した息の詰まる日常を描きましたが、ポニョは鮮やかな色に彩られた絶妙な質感のある楽園を描きました。しかしポニョは不気味な映画で、実のところスカイクロラと同じくポニョの根底にあるのも「現実はつまらねぇ」というのは間違いないのですが、ポニョは厭世観を裏返しにしたユートピアの映画でした。しかしそのユートピアが美しければ美しすぎるほど、それが強烈な現実逃避の証であるわけです。私は映画を見ている間ずっと「あぁ宗介かわいいよ宗介。やっぱ二次元はいいよなぁ、それに比べて三次元ときたら・・・」と思っていました。
 宮崎駿はナウシカ以降中途半端な映画を何本か作っていました。庵野秀明が言っていたように、映画がクリエイターが自分をむき出しにしてぶつかっていくストリップだとしたら、「魔女の宅急便」「紅の豚」「耳をすませば」は肝心なところでパンツを脱がなかったへたれの所産です。現実は地獄であるのは当人が十分承知のくせに、自身の卓越した表現力により描き出した妄想を現実に混ぜ込んでオナニーをしているようにおもいます。ところが「もののけ姫」で監督は自身の抱えていた政治的な苦悩に全力でぶつかりました。文明と自然、繁栄と平和の矛盾という、どう考えても答えが出るわけのない難問に本気で苦悩し、当然答えが出ないまま公開しました。プロットとしては最低ですが、本気でぶつかった姿勢は最大限評価します。
 「もののけ姫」で真っ白に燃え尽きたのでしょう、そのあとの「千と千尋の神隠し」はいわば遺言だと思います。宮崎駿はもう彼岸の人で、完全に俗世間のことから超越してしまっているのです。ポニョはもののけ姫以前の作品群を連想させますが、ポニョが一線を画しているのは「現実はすばらしい」という虚勢を張るのではなく、この世の夢を描いたということです。
 ただ私にはそんな映画が大ヒットする理由はぜんぜん理解できません。本来こんな映画は、現実に無駄な期待をする恐れがあるので、スカトロに匹敵するほど子供に見せてはいけない映画です。子供を元気にするためにこの映画を作ったのでしょうが、これから先の日本には絶望しかありません、絶望とこの理不尽な状況を通過儀礼として知っている人間だけがこの映画を見る権利があると思います。

 宮崎は微妙ですが、押井がやろうとしたのは若者に対する「人生そんなに悪いもんじゃないぜ」という説教です。説教とは役に立たないものです。というのも人の人生に積極的にかかわろうというのならば、相応の責任を伴うもので、良かれと思おうが思うまいが殺されるくらいの覚悟が必要なのです。説教は相手との関係性を棚上げにして、自分は安全なところにいるくせに人の人生に干渉して「自分は相手のためにしてやった」という満足を得ようという、無責任極まりない本来万死に値する行為です。幸いにして聞く側も「こいつは肝心な時に何もしてくれないくせにえらそうなこといいやがって」と軽く聞き流すので効果はありませんが。
 2作品は説教で上記の理由から効果はまったくありませんし、宮崎駿の場合は「生きていることには価値がある」という嘘っぱちをのたまう、邪極まりない偽善な目的を設定した作品ですが、ともに映画としては非常にすばらしいとおもいますす。

 先の金融危機を発端に世界の勢力地図が大きく変わると私はにらんでいますが、政治家が目をそむけ続けた外交的問題、経済的問題、社会的問題を解決しない限りは日本は10年と持たないでしょう。少なくとも今年の終わりごろから確実に景気は悪化して、ただでさえリセッション入りしていたのがさらに悪くなり、今は時代の転換点であると同時に暗黒の時代への突入前夜であります。
 はっきりいってかなりやばいですが、逆にこの絶望をになったどんなアニメが出てくるのか非常に楽しみにしています。

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2008年6月22日 (日)

最近のアニメ

 最近あまり勉強がはかどらずに困ってます。院試まで一ヶ月強、資格試験まで半年・・・前者は何とかなるだろうけど、後者はびみょう。まぁ何とかなるでしょう。

 最近のアニメのの暫定的な評価をしてみようと思います。最近はこれっ!て言う華と面白さを兼ね備えたアニメはなかなかないですが、かといってまったくダメというわけではない、むしろ平均で言えば質は上がっていると思います。出来がよいと同時に、エンターテイメントとしても飛びぬけていて、作家性やエゴの強いアニメはない分、それなりによくできている、まぁまぁ面白いアニメが多くなったと思います。アニメの産業構造に変化が現れているからだと思います。「これで世界を変えてやるっ!」ていう博打のようなアニメで一発当てに行こうという山師的なムードから、一定のコストに対し一定の手堅いリターンを得ようという投資家的なムードに変化しているのでしょうか。
 完全に凋落してしまった日本映画とハリウッドの二の舞にならないかどうかが不安です。完全なビジネスマンが経営し、現在火の車のGONZO、道楽でアニメをつくる体育会系山師集団(ほめ言葉ですよ、怒らないでくださいね)BONSE、一定の良作、傑作をつくるIG、いい意味でも悪い意味でも昔ながらなSUNRISEなど、それぞれ特徴のあるアニメ制作会社の動向が気になります。ただ短期的には胸娘、かのこん、とらぶる(どれもXEBEC)のようなアングラでのエログロ路線が加熱すると思います。
 最近のアニメで面白いのは湯浅氏の手掛けるカイバとむっちむちのRDでしょう。地味に面白いのはドルアーガの塔、PERSONA、二十面相の娘、いたずらなKiss、マクロスFだと思います。

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2008年4月13日 (日)

松文館裁判 

 最近いろいろなことがありました。今週から学校が始まるのでゼミの準備で本を読み始めたり、アニメの入れ替えが始まったり、かのこんとTOLOVEるが始まって日本が終わったり、若松孝二の映画を観たりとホントいろいろです。

 更新が遅れましたが、前回の続きとポルノの規制について今回話をします。前回もところどころ私の押し付けがましい主張がありましたが、今回はそれしかありません

 二次元のポルノの前に三次元のポルノの規制について軽く話そうと思います。
 アダルトビデオやエロ本は戦後延々と規制され続けてますが、警察とかの司法機関が取り締まる訳ではないです。実際は映倫やビデ倫といった機関が検閲をしています。(マンガ等の出版物は出版社の自主規制が主です)。凄まじい量のエログロコンテンツが生産されている中で一定の普遍性を持ったアウトゾーンを決めるのに、前回前々回で述べたような私の言うわいせつと法的な猥褻によって対処するのは不可能です。したがって具体的なコードによってビデ倫の規制や自主規制をしています。
 つまり槍玉に挙げられるような場合を除いて、現実の規制には「どれだけ過激だ」とか「反社会的である」とかいう基準は用いられず、機械的に認識するコードを用いています。早い話がマンコとチンコ(かつてはアナルも)を映さなければ(描かなければ)いいというわかりやすい規制をしています。
 当然ですが猥褻か否かがこんな風に機械的なコードで認識できるわけがありませんが、日本は長い間コードによる規制で満足していたのです。だからどうしたと思うかもしれませんが、実は世界的には特異なのです。欧米ではポルノは無修正が基本ですが、槍玉に挙げるときは存在を完全に抹殺する勢いです。『ネクロマンティック』というネクロフィリア(死体との性愛)を描いたドイツの映画があったのですが、裁判所はこの映画にフィルム焼却処分を命じました。私は2年ほど前、フィルム焼却処分になったはずのこの映画をTSUTAYAでレンタルしてモザイクつきでみることができました。『愛のコリーダ』が日本ではモザイク付きでしか見れないことと対照的な例だと思います。
 つまり日本はモザイクさえかければ死体と姦ろうが、ウンコを食べようが問題ない国でした
 ところがここ数年で状況に変化が起こりました、変化の一つはご存知のようにインターネットの登場です。海外の無修正動画が簡単に見れるようになりましたし、裏ビデオの通販も簡単にできるようになりました。「赤信号みんなでわたれば怖くない」という格言のように既成事実として無修正動画が氾濫し、もはや局部を神経質に隠す意味が現実的にはなくなりました。もう一つの変化として政治家や馬鹿なババァ共が、見たら嫌な思いをするとわかっているアングラな世界をわざわざ見て、キーキー騒ぐようになったことです。
 もともとポルノで局部を隠すことに意味があるとは思えません。大半の人間は一生童貞、処女でもない限りいつかは見ることになるわけだからです。しかし私は映倫は大嫌いですが、ビデ倫はほめてもいいと思います。ポルノを見ているときはモザイクはうっとうしいことこの上ないですが、隠されるからこそ余計に妄想を熱く膨らませることができるのです。私は無修正のポルノを見たときに非常にがっかりしたのを覚えています。モザイクのおかげで日本人は世界最高峰のスケベな民族足りえたと思います。
 現在の無修正だらけの状況が、どういう結果へとつながるのかはわかりませんが、少なくとも無修正を取り締まる法律はザル法であるということはいえると思います。
 以上が私の知る限りの実写もののポルノの規制についてです。

 タイトルにあるように以降二次元のポルノの規制について語ります。
 エロ漫画の規制は基本的にPTAのバカなババァ共が槍玉にあげて有害図書として攻撃するというのが典型です。しかしエロほど普遍的なものはこの世には存在しないので、エロ漫画は影の世界で非常に濃ゆい営みを続けていました。マンガに関しては倫理規制をする人たちがいないので基本的に自主規制なのですが、アダルトビデオに比べてかなりゆるいです(出版社によって差はありますが)。例えて言うならお茶漬け海苔が申し訳程度に貼られているといた感じです。
 前回紹介したように松文館という出版社のエロ漫画が摘発されました。この裁判の弁護側の主張の重要な点を述べる前に、エロを規制する理由について語ろうと思います。
 エロやグロで嫌な気分になる人がいるというのと、真似する奴がいるというのが規制をする口実です。しかし私が思うに自分のもつ規範とたがえるものがフィクションとして存在することが許せないというヒステリックな要因が強いと思います。
 現実と虚構とは何かというと、何だって認識をしている以上は虚構であり、現実は虚構より先にあるとされているものです。人は現実を規範によって組み立てるのですが、即自的とでも言うのかその現実のなかに自分を溶け込ませています。つまり自分の持つ規範から逸脱した物に対峙したとき、自分が侵食されることへの拒絶反応を示し、受け入れたり排除しようとします。
 わかりやすい例がハンセン病患者の隔離でしょう。大抵の人間は「人は美しいものである」という現実の中で生きています。ところが顔が醜く変形したハンセン病の患者を目にすると、「醜い人間」が「美しい人間」を侵食し、必死に「醜い人間」を現実から排除しようとします。おもしろいのは個人レベルの行動でその拒絶反応が起こるのではなく国家レベルでそれをやるという点です。
 人間の羞恥心は、変な話ですが人間の最も根本的なエロスを汚い物として排除しようとするのです。キリスト教社会がアブノーマルな性を持つ人間を徹底的に抹殺していたことを思い起こしてください。
 裁判の話に戻しますが、精神科医の齋藤環氏はいわゆるオタクは3次元の現実と2次元の現実をパラレルに扱う人たちであり(これが彼のオタクの定義です)、2次元での性欲を3次元での性欲に発展させるのはまれであり、エロ漫画を読んで実際にことを起こすことはまれだと主張しました。さらに社会学者の宮台真司氏は、ゾーニング(すみわけ)がなされていれば「見たくない物を見ない」権利は守られるし、暴力的なフィクションに慣れ親しんだ人が暴力的な行動に走りやすいという強化効果説は一時的には成り立つが、長期的にその人を暴力的な人間にするというのは統計的には証明できていないこと、そしてむしろ犯罪を抑止する効果すらあるということを踏まえ、アダルトコンテンツが必ずしも性犯罪の増加にはつながらず抑止する可能性もありえることを述べました。
 判決文は(ネットで見ることができます)齋藤氏、宮台氏の証言を理解していたとはとても思えないような物で、チャタレイ裁判とサド裁判ときて時代が経るにつれて裁判官の質が劣化していってるのがよくわかります。「こんなものけしからん!!」というチャタレイ裁判とサド裁判のほうがまだ筋が通っていました。判事は一応日本でトップクラスの難易度を誇る試験を潜り抜けた人のはずなのに、結局は上に挙げた様なヒステリックな理由でしか判断を下せないバカになっているのです。いかに日本の司法が末期的な状況に陥っているかをうかがわせます。

 個人的にはポルノによって犯罪に走る人間が存在するのは本当だと思います。しかしポルノによって犯罪に走らずにすむ人間の方が圧倒的に多いでしょう。人間には汚い面がいろいろとあるのですから、それを排除するよりもうまく付き合うようにするのが重要です。
 有害なメディアによる青少年の健全な育成の阻害というのは取ってつけたような言い訳です。それより危険なのは、裸や死体を見て嫌な気分になるだけではなく、ビビッてしまうような軟弱さのまま大人になってしまうことです。私みたいに一生処女童貞のまま終わることを前提にしているのなら別ですが、社会が成り立つためには大部分の人間が他人の裸を拝む必要がありますし、現実に世界では戦争があり、日本の経済的繁栄はなんだかんだいってその戦争に支えられているということを知らずにいていいわけがありません。
 見たくない物を見ない権利を勝ち取るためには、自分がどういうものを見たくないのかを知る義務あり、そのためには見たくない物を見ないとダメです。
 児童ポルノ法を強化しようとするババァどもは、自分が子供を虐待から守りたいのか、子供が性の対象としてみることが許せないのかの区別をするべきでしょう。後者は明らかに憲法の思想信条の自由に反していますし、憲法以前に他人の性癖にとやかく注文をつけるのは止めましょう

 追記として野田聖子や公明党の議員のようなバカが「アニメ産業を国際的に展開させていくために、過激な性描写を取り締まるべきだ」という旨の発言をしますが、それについてコメントをして今回の更新を終えます。
 日本の文化の優位性は、『ネクロマンティック』やセリーヌの政治的パンフレットが存在することができるという無法さに支えられているといってよいでしょう。アニメの発展にくりぃむレモンのロリや川尻善昭のエログロがいかにアニメの発展に貢献したかを知ってからものをいいましょう。

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2008年3月19日 (水)

ロザリオとバンパイア お花畑を焼き払え!

今期のアニメもいろいろなアニメがありますね。今月で終わるアニメ、終わらないアニメいろいろあります。
 ほのぼのとしたいい感じの空気を出している「のらみみ」、ますます眠くなる「ARIA」の三期、漫画黎明期の演出なのに今観ると物凄い斬新な「墓場鬼太郎」、新房テイスト全開な「俗・絶望先生」、富山最強伝説を作り出した「true tears」と「PERSONA」等々いろいろです。

 それらの中でひときわくだらなく、私のツボを刺激するのが「ロザリオとバンパイア」です。(この言い方だと上に挙げたアニメもくだらないみたいですね、違いますよ)
 脇役がやたら大御所だったり、突然作画がすごいんだかすごくないんだかわからないものになったり、バンクの意味不明なハイキックや、OPとEDがどう見ても逆だったり、あとやっふふ~んだったりといろいろと魅力があります。しかし何より一番の魅力がそのお馬鹿なお下劣要素でしょう。もうこれでもかというくらいパンツを見せてくれるし、ロリから巨乳、ヤンデレと幅場広いニーズに対応したハーレムを展開してくれてます。
 もう最高にくだらないです(笑)、ありがとうございます!
 さて私はこのアニメをわざわざ夕方に見ています(大学が終わってからです)。なぜならこの時間帯がもっともこのアニメが「わいせつ」になる時間だからです。

 三島由紀夫の「不道徳教育講座」の「桃色の定義」という回で、サルトルの思想を引き合いにしてわいせつとは何かと述べています。ここでさらに私がそれを引き合いに出そうと思います。
 物事を「品の良いもの」と「品の良くない物」に分けると、「わいせつなもの」は後者になります。「品のあるもの」とは内側に自由を秘めているが、その必然性が光で照らされているものです。三島は品のあるものの例にバレリーナの踊りを挙げています。バレリーナは自由に舞っているように見え、しかし同時にある種の予定調和な様式美があります。つまりそれ自体に一個の存在としての自立と、あるべきところにあるべきものがあるといった必然性があるものを「品のある物」としているのです。洗練された生き物のように動く機械(エヴァの動くビルみたいのです)の機能美や、世界遺産の建築物のような様式美、漫才のボケとツッコミのようなものも品のよいものに入れてよいと思います。
 また「品の良くない物」はそうでない物です。たとえば銃をもった兵隊の洗練された動きは訓練の様子では品の良いものですが、子供に銃を向けていては品が悪い物になります。英語もとちりながらしゃべられると品が悪く感じますが、流暢にしゃべると格好良くすらあり品がよいでしょう。特にあるべきところにあるべきものが無い、あるいはあってはならないものがあってはならないところにあるのは品のない物です。とくにわいせつはそれに性的なニュアンスが入るといったところでしょう。
 ミロのビーナスやギリシャのアポロ像は美術館に飾ってあれば「芸術」として品の良いものですが、辛気臭いお葬式の会場においておけば猥褻になるでしょう。
 三島由紀夫は、友である澁澤龍彦が翻訳したサドの「悪徳の栄え」が猥褻物としてつるし上げられたいわゆる猥褻裁判で、「猥褻は観念的である」として彼を弁護したのは有名な話です。ただ彼の「わいせつ」によれば女子供の穴という穴を犯し、殺し、バラバラにして火の中に放り投げるような「悪徳の栄え」は、あるべきところにあるべきものがありのままに描かれた「チャタレイ夫人の恋人」とは違い、明らかに猥褻です。マルキ・ド・サドだって、自分を牢獄に追いやったキリスト教の糞坊主どものはびこる世界に、徹底的に糞をひりかけてやるために「悪徳の栄え」を書いたのですから猥褻の権化のようなものです。
 この裁判は澁澤龍彦の弁護に三島由紀夫のほかに大江健三郎や遠藤周作といった大物作家が名を連ねた正に「お祭り」でした。大江健三郎は単純に憲法に保障された表現の自由を守るために闘ったのでしょうが、当の澁澤龍彦は堂々と裁判を遅刻したり欠席したりとしているところを見ると、自分のやったことが違法であり、裁判も勝ち目が無いことをなんとなくわかっていたような気がします。澁澤本人は「性器が描かれていれば猥褻である」といったくだらない理屈立てしかできない馬鹿な法律家どもへのムカツキを単純に爆発させたかっただけなのでしょう、まさに裁判自体が「法の正義」や「法の真実」といったたわごとに糞をぶちまけるわいせつなのです。

 話がそれましたが私は猥褻を、あってはならないとされているところに存在するエロと捉えています。つまり夕方の家族がみんなでご飯を食べているときに、テレビでおっぱいがポロリとするような素晴らしい事態をわいせつと呼びます。だから私は「ロザリオとバンパイア」がわいせつになる夕方を狙って観ているのです。
 私はこのブログで散々「かくあるべきである」と「かくある」とが混同した認識である「規範」と、「即自的」「対自的」という言葉を使って、辛く苦しい此岸(この世)と夢見る彼岸(ここではないどこか、あるいはあの世)の狭間でいかに人間が苦しむかということを語ってきたつもりです。まぁわかりやすく言えば「こうなってほしい」という夢や理想とどうにもならない現実とのギャップで苦しむことです。また人間は生きている以上はここではないどこかを夢見ながら辛くつまらない此岸で生きていく(そうしないと生きていけない)ということものべました。
 エロを楽しむその根底には人間、特に男の本能に完全にビルトインされた性欲があります。しかしエロは単純に性欲にはとどまりません。彼岸であるところの女性に、自分が抱く幻想でいかにより楽しむかという非常に高度なゲームであります。そして人間の歴史はセックスや性器といった性的なものを汚い物として日常生活から排除してきました。とくにそれを熱心に進めたのがキリスト教で、社会が発達するとセクシュアリティも監獄に閉じ込めるために、汚い物として覆い隠す必要が出てくるのです。このどうにもならないつまらない現実の性を抱えて生きつつ、エロを夢見て人は生きていくのです。(それをするなというのは去勢しろといってるようなものです)エロがわいせつ足りえる空間でエロを楽しむ、つまりわいせつを楽しむことで、よりそのエロへの幻想に入り込みやすく、そして同時に憎たらしい世界への復讐感情と背徳感を同時に満足することのできるのです。要するにわいせつは最高に面白いエロだということです。
 よく「少年誌での乳首はエロ漫画の乳首とはありがたみが違う」(by大暮維人)とかいったり、アフリカの部族の女性の裸が体型云々は別としてエロくないのは、エロ漫画の世界やアフリカの部族等の世界ではむしろ服を着ていないのが普通ですから(笑)、乳首はエロであってもわいせつではありませんが、少年誌の中では乳首はわいせつだということです。アダルトビデオは見る前が一番楽しいのはそれに期待しているのもあるでしょうが、それを期待することがわいせつだからじゃないでしょうか。エロ本が散らかった一人暮らしの部屋で見るより、親の目を盗んでこそこそ観るのが一番楽しく、何より燃えます
 またわいせつを楽しむためにはスケベでふしだらな物はけしからんという、ジジィやババァがいてくれないとそもそもわいせつという前提が崩れてしまうのでそういった人たちが必要なのも事実です。私はそういった古きよき人たちに感謝する一方、思いっきり馬鹿にします。なぜなら彼らの存在には馬鹿にするという素敵な使い道があるからです。
 私個人に限らずわいせつなくして近代社会、とりわけ日本は成立しないといって過言ではないと思います。なんかの歌にあったように「夢を見るのは人に生まれたから」であり、人間を夢から切り離すのはあまりに酷です。もともと日本がほかの国より優れていたのは政治的な規範や建前が厳しくある一方、個人の彼岸への夢にはある程度お目こぼしがあったことです。
 また一つ勘違いしないでもらいたいのはこういった、わいせつなどの彼岸への夢は現実に実現するべき物ではない、そして実現されないからこそ面白いのです。イスラエルのユダヤ人がいつまでたってもパレスチナ人を敵にしたがっている、あるいは嘆きの壁を直そうとはしないのは(現実に直そうというバカもいますが)、夢の都エルサレムを永遠に求め続ける対象にとどめ、自分たちが悲劇の民であるという手前勝手な幻想に浸り続けたいことをなんとなく察知してるからではないでしょうか。殺人と男色の美しさを謳ったジャン・ジュネも社会から賞賛されるととたんに文学から手を引きました。「千年女優」の最後にもある「私、あの人に恋してる自分が好きなんだもん」とはまさにうまく恋愛という一種のヒステリーの的を得ています。ニーチェの「若いときからもてる男の想像力は犬以下である」というのは名言です。私だって現実の女がいかに汚く面どくさい物か知っています、しかし、まただからこそ、よりいっそう女性への憧れや幻想が強く、2次元の彼女たちを愛することができるのです。むしろなま物の女が言い寄ってくることほど私が恐れていることはありません。

 いい加減長くなったのでここで終えてもいいのですが、ちょっといいたいことがあるのでまだ終わりません。西洋諸国ではキリスト教が誕生してから存在し、アメリカでは今なお根強く、ヨーロッパでは何とか克服しつつある、そして日本では免れていたのに、地下鉄サリン事件以降徐々に蔓延しつつある病気、いわゆる「不幸の意識」の発展形で私は「現実教」と呼んでいます。自分の規範とずれたこの世界は嫌だという対自的意識の進化形なのですが、世界の方を自分の規範に無理やり同一化しようというやからです。つまり「理想を目指した現実」ではなくて「理想こそが現実で、現実こそが理想」という物です。私は何もすべての夢や希望をオナニーの道具として割り切れというのではありません。理想や志の無い政治もあってはならないと思います(しかし今の日本の政治はまともな規範も理想や志もかけています)。しかしかなわないけれども願い続けなければいけない夢と、かなえなければいけない夢は本質的に違います。恐らくこの区別がつかない人たちが現実教の信者なのでしょう。
 極端なたとえでは聖書の「汝隣人を愛せよ」という道徳的規範が、「隣人を愛するよう勤めるべき」から「皆隣人を愛するはず」という転換が起こり、世の中みんなおててをつないだお花畑だと無理やり認識するのです(特に私はこれをお花畑派と呼んでいます。)ところが世の中には度し難いどうしようもない奴がうようよしています。そういう連中がいる現実と対峙したときにあろうことかそういった連中を建前だけでなく本気で悪として抹殺し、自分たちは無理やりにでもお花畑の中にいようとします。
 日本では地下鉄サリン事件がありました。私はあの事件には、あの時代の中で流れていたどうしようもない閉塞感や不安感が何かしらのハルマゲドンを予期し、恐れ望んでいたという背景があったように思えます。オウム真理教はいつまでたってもハルマゲドンが起きないから、無理やり起こしてやろうとしました。結果やったことといえば高々地下鉄の中で毒ガスをまくといった、最終戦争としては情けない物でしたが、ただのテロ以上の恐怖が日本を包んだのを子供のころの記憶として覚えています。何故あれだけ人々が恐れたかということについて、私は日本人にオウム真理教と自分たちに何か近い物を感じていたからではないかとにらんでいます。そこで自分たちと本気で向き合えるかどうかが正念場ですが、日本人のしたことはオウムは悪であり抹殺せねばならないと、無理やり自分たちは違うんだと強がって見せただけです。
 ニルヴァーナやユートピアを実現しようとせずに現実を生きろというならまだ理解できます。しかし現実こそ素晴らしく夢や希望なのだというのでは、オウムとは数十人殺す程度の違いしかありません。どうも今の日本人は建前と希望と現実の使い分けというか、付き合い方にはへたくそな気がします。
 その現実教ですが具体的には「耳をすませば」が適当だと思います。この最悪な作品は、夢としてのフィクションとしてのあり方を拒絶しています。宮崎駿はこの映画を通して「若者よ、お前らはこういう青春を生きろ、青春とはこういうものなのだ」と現実にダイレクトに摩り替えさせようとします。私は宮崎駿とは付き合いはありませんが、宮崎駿がこんな青春を謳歌していないことだけは保証します。はっきり言ってこんな青春がかつて実在したか、そして可能なのかはかなり怪しい、というか無理です。しかしこの現実教の犠牲になった人は山ほどいます。
 さらに最近現実に恐ろしいのはお花畑派の人たちです。日本では主に信者がPTA等のクソババァ共ですが、先に述べたように私はこういう人たちは馬鹿にする一方で感謝するべきだと考えています。しかし彼女らが具体的に政治的行動に出るとなれば話は別です。彼女らは児童ポルノ法を以下のように改正しようとしています(さらに私は彼女らを現実教お花畑森山派とか単に森山派と呼んでいます)。

 1規制の対象となる児童ポルノの定義を絵や漫画といった非現実の児童を対象とした物に拡張する。
 2児童ポルノの単独所持を禁止する(現行の法律では製作販売は取り締まれる)

 私は児童ポルノ自体をよいといっているわけではありません。当然どんな酷いものなのかも予想がつきます。そういった犯罪を「無くそう」という志は当然大事です。しかしその理想は「かなえようと努力する」理想であって、「実現しよう」という理想ではありません。恐らく後者と見るのは犯罪がどうやってもなくならないという現実を受け入れられ無いという芯の弱い本性の現れでしょう。
 1に関しては最早言うまでも無く論外です。非現実に思いを馳せるのはもはや人の性です、こういった性を抜け道も残さず押さえつけてうまくいった例を私は知りません。
 2に関しては1と同様の理由です。ロリコンやぺドフィリアの存在を社会的建前として否定することならともかく、世の中にはそういった異常な、あるいは社会的に認められえない性癖を持った人間は確実に存在しますし、自然発生的に生まれるといってもよいでしょう。仮に児童ポルノを見ることによってロリコンに開眼する人が多くとも、当座のところ禁止したところで圧倒的な需要があるのもまた事実です。人間は自分の性的な欲望を満たすためならば、例え違法だとしても手段は問いません(お花畑派にはこれが認められないのでしょう)。むしろ押さえつけられるほど、実際に行動に移す方の圧力が強くなるでしょう。事実私は1が犯罪行為に当たるとしても、今の趣味を止めるつもりはさらさらありません
 またあれもダメこれもダメといって、何もかも違法化してうまくいった例もまたまれです。同程度の一個の犯罪を犯すのも二個の犯罪を犯すのも心理的には大差ないですから、犯罪行為の枠を広げるのは逆効果です。日本では大麻も覚せい剤も「ダメ。絶対。」で一緒くたにしています。しかし大麻で死んだ人間は私は知りませんが(混ぜ物で死ぬことはあるかもしれませんが)、覚せい剤で死んだり、廃人になった例はどれほどあるかわからないくらいです。大麻から覚せい剤やヘロインではまったく麻薬(覚せい剤は麻薬取締法ではなく覚せい剤取締り法の対象で法律的、薬学的には区別されています)の質が違うのに同じ扱いをしてしまったがために、売人がのろけに大麻を吸わせて、無知なのをいいことに覚せい剤にまで手を出させるなんて言うアホな事態も起きています。
 ロリコンを悪とする政治的規範には文句はありませんが、森山派の人たちは、六法全書を書き込んだら実行に移されるデスノートかなにかと勘違いしているのではないでしょうか?そんなくだらない世迷言に振り回される人がいること、実際の被害を抑えられるかどうかはわからないし、欧米の薬物事情を踏まえると逆効果にすらなりかねないことを理解しているのでしょうか。繰り返しますが私は児童ポルノを取り締まるなといっているわけではありません。例えば児童ポルノの顧客を警察がリストに挙げて監視しておく等の措置を取ったほうが、監獄化した社会にあっては、性犯罪の抑止にはよっぽど効果があるでしょうし、実際うちの大学の寮(全学連の活動拠点のひとつ)に警察が令状無しでがさ入れすることなどちょくちょくあります。実際に令状無しの捜査を明文化して認めるかどうかは別として、現場に実際にそのくらいの裁量を持たせることのほうが効果的でしょう。また法律の改正によってかかるコストを、被害にあった児童のケアに当てたほうがより有意義なのではないでしょうか。
 まぁこういった現実的な政治的判断が思いつかないあたりがお花畑派たるゆえんなのでしょう。実際に政治家としての職務を全うしたいのなら、自身の頭の中のお花畑をナパーム弾できれいさっぱり焼き払え。話はまずはそれからだ。


 No わいせつ no life

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2008年2月10日 (日)

たまには嫌いな作品でも

 いつもいろいろな作品を勝手にほめてきましたが、たまにはけなしてみようと思います。
 今回取り上げるのはマンガの『真説・ザ ワールド イズ マイン』という作品です。私はこの作品に、途中で嫌気がさしたので全5巻(一冊一冊がめちゃくちゃ分厚い)のうち2冊しか読んでいないので、作品がどういうからくりを持っているかといったことは当然不完全な形でしか語れないので、内容について深くは語りません。
 はっきり言って私はこのマンガが大嫌いですが、自分の考えが深まったという意味では感謝しています。(胸糞悪さでトントンといったところでしょう)恐らく作者や、多くの読者たちとは別の意味でいろいろ考えさせられました。

 私はこの漫画で「コミュニケーションとはいかなるゲームなのか」ということについて、自分なりの考えを持つことができました。この考えのまとめのようなものをいつかここで述べようと思っています(次回かその次あたり)。今回はなぜこの漫画が嫌いかということのみを述べようと思います。

 この作品は作者も言っているように「道徳の教科書」として作られたものだそうです。 
 そのために「人の生き死に」を描き、「道徳と宗教」を語ろうというのが作者の意気込みだそうです。(これは分厚い単行本のインタビューで作者が述べていたことです)
 この作者はその道徳のために反語的な主人公(特に理由なく人を殺して楽しんでいる、恐らく子供が虫を殺す行為になぞらえているのでしょう)を用意し、徹底的に暴力を「痛く」表現している。私がこの作品が嫌いな一番の理由がこの「痛み」です。またこの作者の訴えようとする道徳も私は大嫌いです。(ですがこの点は作品を通して読んでない私が深く踏み込んでいい領域ではないので触れません。もし全部読んでいたらボロクソにしてやりますが。)
 精神と肉体が完全に分離したものという誤解を招きかねない言い方ですが、そもそも「痛み」というのは外部の刺激(神経の伝達、視覚、聴覚等)が内部に伝達され、その内部で起こる反応です。(ここで言う内部には魂や、感性、意思といったものがあると思ってください)いわゆる「痛いと思っているから痛いんだ」という無茶な表現がありますが、これはあながち嘘ではなく、気の持ちようによっては痛みはある程度コントロールできます。この作品が与えるのは文字通り、精神(いやな言い方ですが適当な言葉が見当たりません)の中でおこなわれる現象の痛みです。痛々しい光景を、わざと「痛く」感じるように描写しているのです。
 現実に起こっている暴力が感情移入ができるかどうかで、「痛く」感じるかどうかが大きく変わるように、外部に関しては基本的には痛みは存在しません。例えば犬が好きな人は犬の死骸を見ると「痛み」を感じるでしょうが、特に愛着のない人にとっては単なるグロテスクなものに過ぎません。人間を精神を閉じ込めた箱に見立てると、「痛み」は箱の中に喜怒哀楽といった感情と同次元にあるのです。
 喜怒哀楽といった情は外部から操作できないように思われるでしょうが、技術があれば実は簡単に操作ができます。映像で言えばこの手のマインドコントロールが一番うまいのがスピルバーグでしょうか(サメとか恐竜とか撮ってた頃のコイツは評価しますが、シンドラーのリスト以降のコイツはこの作者と同じ理由で嫌いです)。私は個人的にはこういったマインドコントロールがすべてダメだとは言いません。むしろいろいろな作品を楽しむためには絶対的に必要なのでかなり肯定しているつもりです。
 一般的な軽薄な作品(ここでの軽薄は悪口ではありません、軽薄な大傑作も存在します)が「痛み」を植えつけるような操作をするのはかまいませんが、この作品がやろうとしたことは「道徳」で、完全に軽薄な作品の範疇を超えています。この作品の「痛み」はその痛みの直後にもれなく道徳が不可分についてきます。
 この道徳の刷り込みの理屈は簡単で、敢えて反語的に「人間は無価値だと」いい読者の道徳観を挑戦的に揺さぶり、その暴力を徹底的に「痛く」描き、その痛みから「やっぱり人間は尊いんですよ」という道徳を刷り込むというからくりです。
 個人的にはこの作者の道徳は私には非常に胸糞悪いです。私は道徳というのは社会を守るための一装置、あるいはバタイユの言うように「衰退」した人間の考えるものだと思っています。しかし世の中にはキリスト教の作り出した愚物以外の何物でもない救済としての道徳があります。この作者が提示している(というより押し付けている)のは救済としての道徳(非常に狭い意味での宗教)であり、しかもそれを根拠付けているのは単なる脅しのレトリックです(「人を殺してはいけないのは、あなたも殺されるのはいやでしょう」という類のものです)
 純粋に暴力を描いて、その結果に「痛み」を見込むのならば私はそれほど怒らないのですが、この作品の描いているのは暴力ではなく、それを通り越した洗脳のための「痛み」です。道徳をやりたいなら、他人にそれを認めてもらおうという目的では、悪質な公開オナニーになることはわかっています。洗脳の技術で勝負せずに、道徳の質で勝負してもらいたいものです。
 この作品の中で「人間は変に賢くなったんです」といってますが、こういった小賢しい方法で自分の道徳で洗脳させようとすることを、変に賢くなったというのです

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2008年1月28日 (月)

ウテナ(映画)、オトナ帝国

 予告どおり今回は『少女革命ウテナ アドゥレッセンス黙示録』と『クレヨンしんちゃん モーレツ!!オトナ帝国の逆襲』について語ろうと思う。
 この二つを語る訳は、個人と社会の規範と幻想という切り口からみることができる作品であり、共に手放しにはほめられないが、素晴らしい良作という共通点があるからだ。

 まずはウテナだが、私はこれは「自分らしく」生きていこうという決意をする「ウテナとアンジー」の物語だと思う。(わざわざ「」付けした理由は後でわかると思う)
 前回も述べたように、世の中には社会的規範というものが有り、それによって人間は型にはめられている。男の子は王子様、女の子はお姫様という規範で押し込められたアンジー、その規範の中で王子様を夢見るウテナ。それぞれが圧倒的暴力を持つ、王子殺しという「現実」に押しつぶされそうになりながらも、規範が幻想であることを知る。そして二人はその現実と、規範の渦巻く外の世界で、自分らしく生きていこうとする。ウテナは大雑把に言ってこういう物語であると思う。(鳥肌が立つほど斬新で格好いい演出もこのアニメの魅力の一つであるが、ここではそれには触れない。)
 製作者にどのような意図があるかは私には明確には判断ができないが、アンジーとウテナへのエールとして作ったのだと思う。しかし、もし彼らが「自分らしく生きていけ」という「規範」を提示するために作ったのならば、私はきっぱりと駄作だといいたい。手放しにほめることができないといったのはこの点にある。
 前回も述べたように、社会は人間を規範によって型にはめる。当然「自分らしく」などというものは認められない。(最近の道徳の授業では「個性を尊重」などとほざくがこれは欺瞞である)こうして人は「かくある」、そして「かくあるべき」という認識を無自覚に植えつけられる。特にジェンダーなどがその例である。
 「社会的規範」は嘘と幻想を吹き込み、人の存在を型にはめるが、だからといって「社会的規範」を無くしてしまえと叫ぶのは手の施しようのない阿呆である。「社会的規範」が社会を成り立たせるために絶対に必要なのは否定しようのない事実だからである。ジェンダー(作中では王子様とお姫様にあたる)にもそれなりに必要性はあるのだ。例えば子供を作り、育てるのが女の幸せという「規範」があるが、現実に子供が生まれなくては社会は成り立たない。また「王子様」と「お姫様」という幻想にも、家族という形態を守るために、それなりに意味があったのだ。
 さらに、多くの人間にとって「社会的規範」の作る幻想の檻は窮屈なものではなかった(今の日本の格差社会では話は別である)。井の中の蛙は外の世界を知らなければ、十分幸せである。蛙をわざわざ天敵がいる外に出す必要はない。
 然るに「社会的規範」は必要であるが、これはあくまで社会を維持するために必要なのであり、一人一人のためにあるのではない。したがってその「社会的規範」は個人の存在に対してはまったくの無責任である。そして何よりその嘘を信じることができなくなるものも出てくる。その規範が「嘘」であると知ってしまった人もいるだろうし、その規範から異端者の烙印を押される人間も出てくる。
 そうした人間は、前回の「ダブルスタンダードで行こう」で述べたように、私は「個人的規範」をもって生きていくしかないと思う。(通過儀礼として社会的規範を吹き込まれるべきだとは思う)例えば性同一性障害の人にとってはジェンダーは苦痛でしかない、彼ら(彼女ら)は個人的規範としてジェンダーフリーなり何なりを掲げていけばいいと思う。当然そのような人たちは(私も含めて)社会からは虐げられ、さげすまれ、もとの檻に戻ることを迫られるだろう。
 この作品ではウテナとアンジーの二人は、自分たち「お姫様」と「王子様」という檻の中にいることを知り、そして自分らしくあるためにこの檻から抜け出すのだ。しかし抜け出した先は決して楽園ではない。アンジーの兄のように、いつか彼女らを元の檻の中に閉じ込めようとするものが出てくるだろうし、現実に耐えられず「だめになってしまう」ことも十分にありえる。外の世界で異端者として生きていくのは吐き気と痛みを伴うことなのだ。
 それでも自分らしく生きていこうという、青年期(アドゥレッセント)の希望に満ちた向こう見ずな華々しさと美しさへのささやかなエールなのではないかと思う。

 次にオトナ帝国についてだが、この作品も「シムーン」と「妖奇士」と同様に無理やり弁証法に当てはめて考えてみる。(ご存知の方もいるだろうが、「即自的」「対自的」というのは、弁証法を精神現象に当てはめたときの、正反合の正と反に対応する用語である)
 よく言われているように、戦後の日本の経済成長のころには未来に希望があり、その希望のために日々働いていたという。未来に向い文明が発展して、あらゆる問題は解決されていくはずだから、そのために努力しようという希望である。私は20代前半なのでそんな希望が高度成長期にあったのかどうかは知らないが、自分の子供のときは科学や文明が発展すればすべての問題は解決するといった、未来への希望が(今思えばかなり青臭いが)あったと思う。
 輝ける未来をはるか遠くに設定して、希望という鞭で自分を打ち、蜃気楼のような未来に向かって走らされていた。しかし経済成長を遂げて、その蜃気楼のある地点に着てみると辛い世の中であることには変わりない。しかも自分の人生の終わりを遥か遠くに設定することのできるような歳ではもうない。希望を抱いて生きていたのが正で、そのメッキが剥げて「こんな世の中は嫌だ」と思うのが反である。妖奇士ではこの世(此岸)への無自覚な期待が正で、結局この世が地獄であることはどうにもならないというのを知り苦しむのが反であった。つまるところは苦しい現実(此岸)を否定するというベースが妖奇士とオトナ帝国にはあるのだ。
 此岸を否定すると、此岸から逃げるために彼岸(妖奇士での異界であり、これは異国とあの世を連想させる)を望むのだが、彼岸のパターンはいろいろある。ケンとチャコの場合は懐古主義である。(ただ現実の懐古主義と違い、彼らの場合、本当に明日に希望を持てた時代に戻れる。)辛く苦しい今ではなく、不便ではあっても暖かく幸せだった昔に戻ろうというものだ。
 野原ひろしとみさえは周知の通り、一度此岸の「今」を捨てて彼岸の「昔」へ行ってしまう。しかし足の臭いでまた苦しみに満ちた此岸へと帰ってくる。なぜなら「家族」という此岸で生きる幸せをしんのすけによって思い出させられたからである。未来への希望というメッキが剥げた後に、此岸を生きていくためには日常にささやかな幸せを見つけるしかない。ひろしとみさえは彼岸での幸せと、ささやかな家族といる幸せとで後者を選んだのだ。
 この選択肢は弁証法での合に当たる。つまり残酷な此岸に迎合するのでもなく、昔にすがるのでもなく、辛い此岸の中で歯を食いしばって耐えて生きていく(止揚する)ことである。
 この映画は何かを伝えたかった映画ではなく、描きたかった作品だと思う。つまり、この作品の中心にあるモチーフは家族なのだが、家族の美しさや素晴らしさを規範として示したかったのではなく、野原一家を描きたかったのではないかと思う。『ウテナ』が「自分らしく生きる」という規範を示したかったのではなく、自分らしく生きるウテナとアンジーを描きたかったのではないかと私が想像するようにだ。
 このアニメの監督である原恵一氏は、悪く言えば時代遅れな人間だと思う。この作品には「生きることの素晴らしさ」や「家族の素晴らしさ」が根底にあるが、彼はそれらがまだ説得力の持った時代の住人だと思う。今の日本では「生きる」や「家族」といったものについての規範が崩れ、最早説得力を失ってしまっていることは、恐らく薄々感づいているのだろう。聞いた話では原監督は携帯電話やパソコンをもつのを避けているという。それらは紛れもなく今の日本を格段に便利にしたものであると同時に、「家族」や「生」といった人の有り方を不可逆的に破壊した張本人である。だから意図的に避け、時代遅れで有り続けようとしているのだろう。私にとっては「生」や「家族」の素晴らしさはもはや剥げたメッキでしかないが、原監督にとってはまだ剥げていないのだろう。メッキがはがれているくせに、「生」や「家族」といった全時代的な美しさや素晴らしさとやらを説く人間を私は下種と呼んではばからないが、原監督のように古い時代に生きる人ならばよいと思う。
 岡田斗司夫氏はこのアニメについて、この野原一家のような家族の偶像がすでに壊れた物であることを観客に突きつける作品と評しているが、私はそうは思わない。
 岡田氏はひろしが足の臭いをかぐところでひろしが胎児のような格好をしていることと、オート三輪のなかで「昔」への未練に苦しむシーンから、「家族」の素晴らしさを説く作品ではなく、現実の残酷さを観客に突きつける作品としている。先に述べたように私はこの作品を規範を示すアニメではなく、この世で生きることを選択した野原一家を描きたかった作品だと思うから、確かに「家族」の素晴らしさを説く作品ではないと思う。しかしひろしがあのシーンであのような格好をしていたのは(堂々とした父親のような姿ではなく)、此岸で生きていくことは辛く、そしてみっともないことであることを生々しく表現したかったからだと思う。またオート三輪の中で未練に苦しむシーンは、完全に彼岸への思いを捨て去って生きることもできない、常に彼岸と此岸の板ばさみになって生きなければ生けないということだと思う。あの映画の内容で、家族などいない悲惨な現実を突きつけるのが意図だとしたら、原監督は相当意地悪な人だと思う。

http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/10/post_2470.html

 しかし確かに今の日本ではすでに「家族」や「生」の素晴らしさ、美しさはすでに剥がれたメッキであるのも事実である。私がこの作品を手放しにほめることができないのは、多くの観客がかつて存在したらしい「家族」の素晴らしさに思いを寄せる懐古主義へと走る可能性が高く、現にそうなっている点にある。つまり野原一家のような「家族」のあり方を、現実の規範として憧れるのである。
 現実の懐古主義は作中のような昔の「ニオイ」とは違い、現状を否定して忘れ去ってしまうことなどできない。否定しているがゆえに現状を色濃く引きずるのである。(例えばジェンダーフリーを訴える人ほど男や女にこだわる)そしてその場合過去への憧れが先行し、現状とまったくそぐわない、実行不可能な規範を掲げようとするのだ。(いまさら経済成長の成果を捨て去ることができないことを思い起こせばよいだろう)そして先の「愛国心」のように、地に足の着いてない規範ほど厄介なものはない。
 私は野原一家の物語という一点おいてこの作品が好きであり、現実の家族に対する思いにおいてではない。

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2008年1月 9日 (水)

天保異聞 妖奇士 説三(最終回)

(説二の続き)
 竜導往壓、アトル、鳥居耀蔵という三人の登場人物を軸に話を語ろうと思う。当然これ以外にも多彩なキャラクターが登場し話にいろどりをつけているが、説明の都合上、この三人に絞らせてもらう。またこの作品の魅力は、私の駄文で到底語りつくせるものではないので、改めて本編に立ち返ってもらいたい。(それ以前に大きくネタバレをするので観る予定の人は注意
 先のシムーンでも述べたように、人は生まれたときには無垢であり、やがて汚れていく。無垢であるとはどういうことかというと、世界と自分との境がない意識状態である。この意識を即自的意識と呼ぶ。即自的意識のなかでは世界とは即ち自分であり、物事をありのままに、感じるままに受け取ることができる。しかしいずれ自分と世界とが異なるものということを知る。ここで自分というものを意識し、対自的意識が芽生えるのである。無垢な人は、世の中の物事はきっとよい方向に進んでいくとか、解決できない問題などないとか、世界は美しいものだとか思っているものだし、自分の未来には漠然とした希望をいだいている。
 往壓は少年時代に自分なりの将来を思い描いていたが、ある日自分の人生のレールを見せつけられる。それは彼の抱いていた漠然とした希望とは別のものである。しかしその希望はそれまで抱いていた自分の「現実」であり、「所詮は夢だった」と容易に割り切れるものでもない。それまで自分が思っていたほど世界は美しくも、面白くもないものであることを知り、ここではないどこかの美しい世界(異界)を求めた。
 かくして往壓は異界へと旅立つのだが、なぜか結局現世へと戻ってくる。異界から戻って以来彼は自分の生きている世界が本物でないような満たされない渇きを感じていき続ける。
 人は辛く、つまらない世の中でも生きていかなければならないと、自分に納得させていると同時に、往壓は異界に心を惹かれている。現世と異界という矛盾を、往壓は抱えているのだ。
 アトルもここではないどこかを求めた。彼女が最初に想いを馳せたのは日本であった。しかし彼女があこがれた世界(日本)も結局はもといた世界と同じく、理由なく殺されるような不条理な世界だった。彼女がほかのキャラクターと異なるのは、彼女は即自的意識を保っている(つまり無垢)ことである。外から来たものとしての日本への憧れと、その無垢さのため、彼女には日本の不条理を当然のものとして受け入れることができない。(前回「一人を除いて」としたのはアトルのことである)
 鳥居耀蔵はリアリストであり、冷酷な為政者である。彼は純粋に徳川の世を守るために政治を行い、それに逆らうような者は誰であろうと悪と断罪し、妖夷になった哀れな労働者であろうと斬って捨てる。アトルが目の当たりにした不条理の体現者であると同時に、純粋に国のために政治をおこなう優秀な為政者である。鳥居自身は自分のしていることを完全に正義と信じて疑わないし、政治家としての彼はまったく正当である。
 アトルのその無垢で純粋なところに、自分の矛盾に苦しみ、自分を偽って生きざるを得ない往壓が救われ、惹かれたのは当然なことである。アトルは現世の解決できない不条理と苦しみに耐えられず異界を求めるが、それを止める往壓が「おまえにここにいてほしいんだ」と直球で訴えたのが面白い。
 現世で生きることと、異界に行くことはどちらも間違ってはいない。生きていくことに耐えられず自殺してはいけない理由がないように、異界に行ってはいけない理由はどこにもない。その正否を決められるのはその人だけで、他人が普遍的な道徳とやらを持ち出して引き止める権利はない、止めてよいのはその人を本当に必要としている者だけである。往壓は最初の妖夷のときのように「辛くてもひとは生きていくんだ」ではなく、「ここにいてほしい」という自分の思いをぶつけた。
 TVシリーズを通して往壓、アトルはこの世の苦しみと、異界と現世への思いという矛盾とともに生きていくのである。
 最終回での「人は物語なしには生きていけない」というのは、人は現世とここではないどこかへの想いの板ばさみで生きていかなければならず、ここではないどこかへの想いを捨てて生きていくことはできないという意味と私は解釈する。
 OVAの獄に入り、鳥居と思想的に対立するもう一人の怪人、高野長英が登場する。彼は「この世は地獄よ」と断言する。この言葉の意味はTVシリーズを通して十分に理解されるものである。鳥居も失脚したのちこの言葉をかみ締める。
 往壓は神になり、同時に人ではいられなくなり、地獄である現世から異界へと旅立ってしまう。そして少年の往壓が異界から帰り、物語は幕を下ろす。
 この物語はドストエフスキーの『白痴』に近いものがある。無垢である伯爵が現世の悦びと苦しみと汚れを知り再び白痴となり、俗な世界から去ってしまうというからだ。しかしこの物語の主人公は伯爵のような聖なる人ではなく、肉を持った俗にまみれた無職のおっさんである。
 この物語は人が自分の中の矛盾、現世の悦びと苦しみを知り、それを抱えてどう生きていくかという、非常に洗練された見事なものである。

 以上述べたような矛盾を抱えた人間の濃厚な物語は、一般の軽薄な作品(軽薄なアニメがダメというわけではない、事実私は軽薄なアニメも大好きである)と違い、万人に理解できるようなものではない。はっきり言って土曜の6時に興行的に成功するわけがない。成功する唯一の可能性はNHKの深夜しかありえないと思う。
 しかし打ち切りにもめげず、ここまでの傑作を作りだした亡くなられた逢坂氏とスタッフ一同には最大限の敬意と賛辞を表したい。

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2008年1月 7日 (月)

天保異聞 妖奇士 説二

 (説一の続き、今回はネタバレを厭わないので注意

 OVAとテレビ本編を観終えた今の、私なりの解釈を述べようと思う。このアニメ、『天保異聞妖奇士』には二つの魅力がある。一つは時代劇としての面白さ、もう一つは矛盾を持ったドラマとしての面白さである。

 実はこのアニメはファンタジーであるのにも関わらず、近年まれに見るよくできた時代劇である。かなり入念に時代考証がなされていて、きっと江戸時代はこんな感じだったと思わせるほど、天保の江戸を見事に構築している。とくに吉原や江戸の庶民の生活といった、江戸の風俗の描き方が、そこらへんの時代劇よりもはるかによくできている。
 特筆すべきは、鳥居耀蔵、河鍋狂斎(『地獄少女』のOPに出てくる地獄絵をかいた画家)、高野長英、土方歳三(の子供時代)といった史実の人物の、劇の中での人物像の肉付けが非常にうまくできていることだろう。
 例えば野沢雅子が演じる少年の土方歳三が、函館戦争で自分が死ぬところを垣間見たときの「だが、死に方としては悪くなかった」と言う台詞と演技は、このアニメがあからさまなフィクションであるにもかかわらず、「確かに土方歳三だったらこんなこといいそうだよなぁ」と思わせられるだけの説得力がある。
 また他の時代劇と一線を画す点として江戸に対する憧れを禁じている点がある。大抵時代劇や外国を舞台にした劇は、過去の時代や異国に対する「ここではないどこか」(作中で言うところの異界)への憧れが含まれる。しかしこの作品は江戸時代を憧れではなく、その「憧れを抱く心」を描くための舞台として描いている。(この点が同じ山村竜也氏が時代考証を務めた『新撰組!!』との受ける印象の違いである)
 例えばこのアニメの中での江戸は、「浮民」(大抵の時代劇ではタブーとされたエタ、ヒニンを連想させる)などの厳しい身分制度が存在し、吉原は華やかであると同時に「羅生門河岸」のような地獄の顔を持っている。さらにこのアニメの住人は一人を除いてその不条理を必然のものとして生きている。
 このアニメでの江戸は「地獄」の顔を持つ世界であり、「憧れ」によって描かれた江戸になれた者にとっては意外であると同時に、肉を持った人間の住む妙な説得力がある江戸なのである。

 このアニメの醍醐味は登場人物は矛盾を持って生きていることである。私はアンビバレンツな人間の生々しさを描いたアニメはこれと『新世紀エヴァンゲリオン』(の終盤)ぐらいしか知らない。
 前回の説一で述べたように、私はこのアニメを初めて見たとき、「しっくり来ない話だ」と感じたのだが、それは矛盾のない痛快時代劇を期待してみていたためであり、これほど生々しい話は逆にわかりやすい。
 フィクションにしろノンフィクションにしろ物語は大抵登場人物の心理、動機に矛盾を持たせないようにしている。物語は誰かが視ることを前提としているため、そのほうがわかりやすいからである。矛盾を抱えない物語が駄目だというわけではないが、人間の本質的な問題をネタにした物語では矛盾を捉えなければどうしようもない駄作である。
 例えば『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの中にあるギリシャ正教徒としての自分(アリョーシャ)、肉と欲を持った人間としての自分(ミーチャ)、神など信じるわけにはいかない自分(イワン)という3つの相克する自分を矛盾のないように3つの登場人物に分裂させた。しかしこの3つの登場人物を完全に独立した人間として捉えてカラマーゾフを読むと(つまり矛盾のないものとして読むと)、キリスト教的道徳の悪趣味なオナニーでしかない。三人の物語を矛盾を抱えた一個の人間の物語として読んだほうが絶対に面白い(悪趣味な読み方のほうが一般的だが)。
 そしてこのアニメは、人間が矛盾を抱えて生きていくことがテーマになっている。具体的にはここではないどこか(異界)を求める思いと、この世界で生きていこうという思いの相克である。どちらも間違っているわけではなく、どちらも正しいのだ。(この点が痛みのある世界が本物と安易に言い切った電脳コイルとの決定的な差である)
 次回は具体的にその矛盾を孕んだ劇がどのようなからくりを持っているかを語ろうと思う。

(つづく) 

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2008年1月 6日 (日)

天保異聞 妖奇士(てんぽういぶん あやかしあやし) 説一

 正月を、親戚の家で延々とアニメを観て過ごしていました。妖奇士を通して(OVAの獄も含めて)観たのですが、改めてみると、目からうろこが出るほどの傑作でした。もともとこのアニメはテレビでも観ていたのですが、どういうアニメかという印象をもって、改めて観ることで、その真価に気づかされたような気がします。
 2007年はいろいろなアニメがありました。(妖奇士は2006年放送開始ですが2007をまたいでいるので、強引に2007年のアニメとしておきますw)以前はこの妖奇士を2007年のアニメの中で電脳コイル以上、河童のクゥ以下ぐらいの評価でしたが、妖奇士は今は去年のダントツに好きなアニメへと評価を変えました。
 ちなみにその前に一番好きだったのがDARKER THAN BLACKでした。(改めてみると妖奇士、ダーカー、ストレンヂアと去年のボンズのアニメは、個人的なツボにはまる物ばかりでした)
 今回からその妖奇士について、例によって非常に私的で偏った形で話をしようと思います。

 まずは放送当時のことを振り返ってみましょう。 
 『天保異聞 妖奇士』のOPを見たとき私は(恐らくは一般の視聴者も)「時代劇風痛快冒険ファンタジー」という印象を受けました。ところがいざ本編が始まってみると、恐ろしく内容が地味で重く、またしっくり来ないストーリーで、少なくとも痛快や冒険といったものではない。痛快な物語を求めていた視聴者(私)はそのギャップに肩透かしを食らいました。
 何話か観ていくうちに、これは普通のアニメの観方では理解できないアニメだと勘付き、このアニメの楽しみ方がわかり、なかなか渋みのある面白さに気付きました。しかし、なんとなく楽しんでいた矢先にささやかれだしたのが打ち切りのうわさです。4クールの予定が2クールに短縮するというのです。
 「あれだけぐだぐだで何の内容もない前番組の血+の、苦行としかいえない4クール(にもかかわらず私は全部見ました。ひとえに矢島晶子様のショタ声を聞くためだけにです)を無事放送したのだから、まさかあやかしが打ち切られるわけがない」と思っていましたが、後番組の「地球へ・・・」の放送が決定し(これも駄目駄目な内容でした)噂は本当になりました。
 テレビ放送での物語の終盤は、天皇と徳川の時代に対し、南朝の末裔「西の者」がクーデターを起こそうとして、主人公たち奇士たちがそれに立ち向かうという形で強引にしめました。後で述べますがこのアニメの肝心なところは、この世を生きていく渡世の苦しみは、ハリウッド映画のように悪い奴を叩けば何とかなるわけではなく、何をどうやってもどうにもならないものであるということを描いたとこに在ります。
 「西の者」との対決が始まる回の予告が、「都合のいい悪役を仕立てたところで、本当のことから目を逸らしているだけ」という言葉で締められているのは、打ち切りのせいで「都合のいい悪役」を仕立てさせられたスタッフの恨み言だというのは、当時の私でも理解に難く在りませんでした。
 案の定最終回は笑ってしまうくらいの急展開でした(小笠原ナックルには壮大に吹きました)。妖奇士には鳥居耀蔵(実在の人物、江戸の南町奉行として蛮社の獄や、天保の改革で江戸の国民を縛り付けたことで知られる。私はあまり時代劇を見ないのですが、時代劇の悪役として有名だそうです。ちなみに中の人は若本規夫)というキーパーソンが登場し、陰でいろいろな陰謀をめぐらしていたのですが、そういった伏線をすべて放り投げ、残念な未完成作品としてTV版は放送を終えました。

(つづく)

 

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2007年12月28日 (金)

シムーン

 人気のあるアニメが面白いアニメとは限らないように、面白いアニメが人気があるとは限らない。そのいい例が今回紹介する「シムーン」である。
 ferdinandはこのシムーンは21世紀のアニメで1,2を争う傑作だと思う。はっきり言って同時期に放送されていたハルヒなどとは比べ物にならない。しかしこのシムーンの知名度はかなり低い。
 シムーンは百合アニメ(いわゆる男が楽しむための女性同士の同性愛をネタにしたアニメ)として売り出していた。百合物はただでさえ需要が少ない上に、好きでない人にはむしろ嫌悪感さえ与えかねない(現に2chのシムーンスレは放送開始直後はかなり荒れていた)。さらに用語、世界観になじむまで、何が起こってるのか全然わからないため、エヴァもどきのアニメのような印象を受けてみる気をなくした視聴者が多く、そして駄目押しに百合アニメをうりにしているくせに、百合としては刺激が弱かった。
 結果どのようなことが起こったかというと、百合好きか、百合に耐性のある人間だけが第一回放送を生き残り、さらに序盤の用語に慣れなかったものが離れていく。また話が進んでもエロいのはアイキャッチとCD,DVDのジャケットだけ、キス以外の性的な描写はせいぜいほのめかす程度で、百合目当ての本来のターゲットが離れていく。幾多の試練を潜り抜けた猛者が中盤になり面白さを知るのである。
 今回はシムーンについて、本編を視聴したことを前提に語ろうと思う。(よってネタバレに注意)

 シムーンの世界では、人は皆少女として生まれ、一定の年齢になって男になるか女になるかと選択をする。この現実の世界とはまったく異なる設定と、翠玉のリマージョンによって歴史、世界が何度も更新されていくという螺旋型な世界観、そしてキャラクターたちの劇が、このアニメでは絶妙に調和しているのだ。独特で面白い世界観を持った作品は多くあるが、それと劇とが、鳥肌の立つほどうまく組み合わさった作品はまれである。
 社会の中で人は女であるか、男であるかということを意識し、男とは、女とはこういうものだという認識を持つ。そういった意識、認識をジェンダー(社会的な性差)という。アニメにおいても話の中には、一定のジェンダーが流れている(ブレンパワードのように意識的に突きつけるものもあるが、大抵のアニメは視聴者の中に共通のそれを仮定していたりする。)。
 このシムーンは男、女以外の「少女」という第3のジェンダーを創造することに成功している。ユニセックスを設定に盛り込んだアニメはいくつか有るが、第3のジェンダーの創造に成功しているアニメを私は知らない。本編を観る者は、最終回のラストシーンで、単純な感動とは言い切れない、切なさと喜びの混じった感慨深さを覚えると思う。アーエルとネヴィリルは「男」でもなく「女」でもなく、「少女」というジェンダーを選択するが、視聴者はそれが美しくとも、どれだけ辛い物なのかを知っているため、ラストシーンに震えるのだと思う。
 「少女」というジェンダーは、視聴者にとってまったく突飛な物ではなく、幼年期のころというイメージとして受け入れられる。誰もが経験した無垢であった時代である。しかし人は痛みを知り、自分という物をいやおうなく意識するようになる。対自的意識が芽生えたとき、幼年期は終わり、「少女」でなくなるのだ。アーエルとネヴィリルはさまざまな出来事を経て痛みをしり、対自的意識が芽生えだす。彼女たちは戦争中は巫女、そして兵器としての存在(人格)を強制され、戦争が終わると性別を強制される。一部を除いた仲間たちは性別を選び、自分がかつて「少女」であったことへの想いを二人に託し、そして2人は選択をしないという選択をする。見る者(最早無垢ではない)は仲間たち(同じく無垢でなくなった)とシンクロし、対自的意識を持ちつつも「少女」であり続けることを選んだ二人に想いを託すから、最終回は震える。

 作中でも「少女」であり続けることがどういうことかが、オナシアという存在を通して描かれている。私はオナシアが粉になってしまうということは、いつまでも「少女」であり続けることは、いずれ悲痛な最後を迎える、もしくは不可能なことという暗喩であると解釈する。 
 アーエルとネヴィリルの二人は(リモネもだが)いずれ穢れた大人になってしまうのか、それとも破滅するのかは想像に任せられることだが、少なくとも彼女たちは「少女」という刹那的な永遠の中で存在するのだ。


 

 ここでみた「対自的意識」という切り口は、いくつかのアニメにおいては決定的な役割を持つ。いつか(または次回あたりの更新)で触れてみたいと思う。

 


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