いかに物事を楽しむか
私は文学、映画、マンガ、アニメを楽む人間だが、最近では一つの向き合い方を採用するようになった。それは何よりも「面白く視ること」を優先することである。
例えば学校の国語の時間では、作者(以下作品を作ったものをこう呼ぶ)が作品で「言いたいこと」がなんであるかを知ることを最重要課題として掲げる。しかし問題になるのは本当に「言いたいこと」ことが一義的に定まっているか、あるいは定めることにどのような意味があるかということである。さらにその問題の奥に在るのは作品の「存在」に一意的な形が存在しているかどうかということがある。
仮に一意的な形がある作品に定まっているという立場をとっているとして(イデア論のような立場と思ってもらいたい)、問題になるのはその形を知ることができるか、あるいはどのように知るのかということである。しかし残念ながら、人は現実をありのままに理解することはできない。というのもフィルターを通してでしか人は物事を捉えることができないからである。ここで言うフィルターは言語や社会的道徳や宗教といったバイアスである。当然そういったフィルターが矛盾を孕んでいる可能性は十分にあるし(特に言語)、実際含んでいる。
例えば小説を手にとって読んでいるとする。ではその作品はどこにあるだろうか。著作権の絶対性を信ずるものならば、手の上と答えるだろう。だが物質的な意味の小説には、読み手にとっては(骨董品ならば別だが)興味がないし、そんなことはここでは問題ではない。作品の本質がどこにあるかということである。その観念的な作品は読み手の脳内にふわふわと漂っていると私は思う。その作品は、読み手の気分や、作者についての情報、評判、前もって知ってるあらすじ等のさまざまな要素によって色づけされて存在している。残念ながらその色を完全に落とすことはできないし、完全に漂白されたものはそのままでは楽しめない。むしろそういった色づけも含めて作品は存在するのだ。
つまり作品の一意的な意味や形があると骨の髄まで信じきったところで、「意味」や「形」は観測者や状況に応じて変化しうるもので、事実変化するのである。
また物事の存在に一意的な価値や真理があると信じ、絶対的、普遍的な形を前提として物事を語ることの愚劣さはニーチェによって暴かれてしまったことである。
しかし「作品の意味や価値の存在を否定したら、すべての物事はナンセンスで、塵に帰すではないか」と思う人がいるかもしれない。それはまったく間違っているわけではないし、そして言語も一定の矛盾を内包したゲームに過ぎない。そして私の立場はそのゲームを楽しめるだけ楽しもうではないかというものである。つまり一定の「真理」のようなものや、「作者の意図」のようなものを形だけ仮定するが、骨の髄までそれを信じたり、あるいはそれにすがったりはしないということだ。
私の大学の先生は政治思想史の授業の中で「哲学なんて面白ければいいんです」とおっしゃっていました。何よりも楽しむことこそが作品に触れる至上命題であるべきだし、楽しむとは適当な価値観にもとずいて作品を感じとり、ほめたりけなしたりして遊ぶことであろう。だから私は作品に応じて適当な価値観を設定するし、服を脱いだり着たりするように脳内の価値観を切り替えたりもする。そしてたとえ「作者」が作品の意図を語るようなことがあり、それと私の見方が対立しようとも、私はその遊びとして面白い方を採用、あるいは新しく作るだろう。また場合によっては(特に富野監督など)はその「作者」の人格を勝手に想定して作品に結びつけて妄想したりもする。
齋藤環氏がオタクの特性として、情報を使って遊べる人たちという風に話していたことがあった。(例えば極端にデフォルメされ、嘘とわかりきっているエロ漫画で抜ける人たちのことです)そういう意味で私はより健全なオタクになろうと思うし、そもそも文化とはそういう意味でオタク的なものであると思うし、またそうあるべきである。
おもしろいは正義
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