日記・コラム・つぶやき

2008年6月 7日 (土)

携帯電話

 アメトークのエヴァ芸人の回を見ました、やっぱオリエンタルラジオはうざいですね。なにも語る言葉を持ちません。エヴァについていつか語りたいものです。ちなみに私が好きなのはリッちゃんです、あのj濃厚なギトギトした感じがたまりません。「伊吹マヤが一番!」そんな風に思っていたころが俺にもありました。

 今回は携帯電話について語ります。凶華様の特殊能力のことではありません。
「ガイアの夜明け」という番組で子供から有害なネットのコンテンツから守れという趣旨の番組が放送されました。小中学生が学校の裏サイトやプロフを使って誹謗中傷を行い、自殺に追い込まれるという事件が多発していること、ネット上の出会いや交流から犯罪を起こす物が出るという事件が多発しているというのです。
 私個人の考えでは小中学生に携帯電話をもたせるのはダメだと思います。少なくともソフトバンクの子供に携帯電話をもたせようとするCMのような風潮(規範)はダメです。
 最近は政治家たちの間でも携帯電話を子供に持たせるなという議論があるそうですが、彼らの考えと私の持論とは大きな違いがあります。

 ここ10年くらいでパソコン、インターネットが飛躍的に発展、さらに電話とは名ばかりの情報端末である携帯電話が登場、異例のスピードで普及したのは周知の通りです。SFっぽくいうと電脳化がすすんだのです。電脳化された社会を描いたアニメで有名なのは攻殻機動隊ですが、より実際に近いのはserial experiments lainでしょう。lainがすごいのは電脳化が進めば起こるであろう、他者が偏在化するという事態に軽く触れたことです。
 人間とは非常に非合理的な生き物で、寂しがりやなくせに、他人を恐れ、嫌わずにはいられないという困ったところがあるのです。(これを臆面もなくさらけ出したのがエヴァです)即自的な意識が対自的な物へ代わる原因は紛れもなく他者の存在です。それまで何の障壁もなく透明だった(と思っていた)はずの他人が、実はまったくもって自分のことをわかってくれない、それどころか自分のことを常に操作しようと常に腹のそこを伺っているということを知るのです。こうして他者が誕生してしまうのですが、他者と自分との境界は実に微妙です。特に日本人は他人の見ている自分の姿を自分のありようで自分のありようを決めようとする性質があります。したがって生身を通したコミュニケーションのように他者が他者としての仮面をつけていてくれないと、実はかなり自分と他者との境界はあいまいになります。 lainの世界のように電脳世界(wired)で人間がつながっていると自我の境界が極めてあいまいになるわけです。玲音はどこにでもいてどこにもいないということです。インターネットの普及とは比べ物にならないくらいに携帯電話はダイレクトに、他者との境界をぼやかしてしまいます。というのもつねに持ち運べて簡単にアクセスできるのにたいし、PCはわざわざ立ち上げなければならない分つながっているときとそうでないときの区別がしやすいわけです(もちろん一日中家に引きこもってPCの前にいるような場合は別ですが)。
 また先に述べたように人は他人と傷つけあわずにはいられないくせに、非常に寂しがりやな生き物で、だから人間関係なんてものはめんどくさいしもめるものです。このめんどくさい物を、めんどくさい物として対処する術を身につけるには通過儀礼として「他者」を知る必要があると思うのです。しかし携帯電話のように常に他人が密着していると、個人は完全に他人から逃げることができないでしょうし,また「他者」としての顔をしていないので「他者」を知ることができず、傷つけあい依存しあうという悪循環に陥るでしょう。
 私は「他者」を知らずに育つことが当人とその周囲の環境に与える影響はあまり望ましくない物であるように思います。ミサトさんもいうように「大人になるってことはお互いに傷つけあわないような距離をとれるようになること」です。そういう意味で子供に携帯電話を持たせるのは止めた方がいいでしょう。

 ただ携帯電話はとんでもなく便利な道具です。いつかは携帯電話を持たざるを得ないでしょう、恐らく本人が望まなくても半強制的に携帯電話を持たされる時代が来るでしょう。ですから私は「子供に」携帯電話を持たせ無いようにする必要があると思うわけです。子供時代に「他者」の洗礼を受ければよいわけです。

 インターネットと携帯電話が人間関係の位相(遠いとか近いとかの関係)をガラリとかえ、これから予想もできないような形へと変貌させていくかもしれません。産業的な理由等から恐らくそれは不可避です。たった一日しか顔を合わせていない人間が強盗や強姦をやるのは別に何の不思議なことは無く、必然といえます。
 自民党の高市早苗というどうしようもないクソ女がいますが、このゴミが筆頭になってウェブコンテンツを規制しようとしています。はっきりいって、ネットの登場による時代(そして人間)の変化は法律を作ったからといって止められるような物ではありません(仮に方法があるとしたらネット自体を禁止するしかないでしょう)。エログロを隠すことは「青少年の健全な育成」にはつながりませんし、出会い系サイトが問題なのではなく、出会い系サイトで出会いを求める人間の「寂しさ」と彼らが「世間知らず」であることが問題です。硫化水素自殺の問題は自殺方法が容易に手に入ることでは無く、日本人のバイタリティーが低下してることです。
 政治家がやりたいのは問題の根本的解決では無く、国民の生活領域の管理と、自分たちが国のために働いているんだというアピールです。奴らの施策は上っ面だけで、「他者」の偏在化という深い重大な問題を解決できないだけでは無く、ネットの可能性の芽を根絶やしにしてしまうでしょう。

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2008年3月12日 (水)

コミュニケーションとはいかなるゲームか

 実家に帰省したり、資格の勉強やら、PCがトラぶったりなどでなかなか更新できず申し訳ありません。これを楽しみにしている物好きなどいるのか怪しいですが、予告した通りにコミュニケーションとはいかなるゲームなのかという話題について語ろうと思います。
 今回も大した内容でもないのに堅苦しくなるので次回は思いっきりくだらない「ロザリオとバンパイア」について語ろうと思います。

一般的な誤謬

 私がここで述べる「コミュニケーション」というのはバタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」に近いものであり、単なる伝達としての意味合いが強いコミュニケーションという単語を敢えて使います。

 一般的に文章(エクリチュール)や語りといった「コミュニケーション」についての浅薄な認識が広く持たれている様な気がします(気がしてるだけかもしれませんが)。その認識とはコミュニケーションとは、他人に自分の考えを伝える行為に尽きるという認識であり、誤謬です。確かに世の中にはそういった伝達のために発信される情報の方がはるかに多いのですが、私は本当に面白いものは単なる伝達以上のものだと思います。
 ギリシャ文化を研究していた時のニーチェは、プラトンについてのところで、本を書く意味は知識や思索が足りない読者を導いてやることではなく、書く事によって自分の思索を深めることであり、その付加的な可能性として読者も自身の思索を深めることができるかもしれないだけだと述べています(ちくま学芸文庫ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神より)。このニーチェの発想は後年の彼の生き様を暗示していると同時に、単なる伝達や啓蒙(説教)としては説明のつかない、数々の創作物の面白さの所以を的確に表現していると思います。
 具体的にコミュニケーションとはいかなるものなのかということを述べる前に、何故多くの人々が文章や語りといった行為を、単なる伝達行為として捉えようとするのかということについて私の見解を述べようと思います。
 今回もいつものように即自的、対自的という言葉を使います。誰しも子供のときは(あるいは大人になっても?)世界と自分とが溶け合っている認識を持っています(これを即自的といいます)。ところがあるとき世界と自分との違いを認識し、他人の存在を知ります(対自的といいます)。この「他人」はウラでは自分のことを馬鹿にしたり、嫌悪したりしているかもしれません。しかも人間は確固たる自我なるものを持っているわけではなく、他人の持つ自分への印象を自分に反映するという性質があります。結果自分のイメージを他人に完全にゆだねてしまうか、他人の心を操作しようとします。
 とどのつまり人は、他人を自分の操作可能なものにしようという欲求に常に駆られているということです(他人に自分のイメージをゆだねた人は、今度はそのイメージを守るために戦います)。そういう洗脳合戦に明け暮れる人たちにとっては、人生は他人にいかに自分の言うことを聞かせるかというゲームに過ぎません(口ではどんなきれいな道徳を口にしようともです)。他人の問題に還元されえないようなことを話す人を、「独りよがり」と言って攻撃する人がよくいますが、これにはその人が自分の操作できないところにいることへの憎しみが働いているといえましょう。しかしながら本当に面白い物は「独りよがり」な物からしか得られないというのが私の経験による事実です。

 コミュニケーションとはいかなる行為か

 バタイユの言う「交流(コミュニカシオン)」についての私の見解を述べようと思います。(自分の目でバタイユが何を言っているのかを確かめたい人は『無神学大全Ⅱ 内的体験』(平凡社)を読んでみてください)
 人間の精神的活動の中で、彼がもっとも尊んでいたのは絶頂へと至ろうとすることです。それは自分の体を引き裂いて(供犠)、一皮剥けた自分と世界のありようへと向かうことであり、そこでは今ある自分とそうでない異物との混ざり合いが起こっているのです。この焼けるような苦しみと陶酔が伴う行為こそが交流なのです。つまり交流とは異物(一皮剥けた自分)との交じり合いと、それによる変化のことです。
 人間には誰しも自己顕示欲や他人を操作したいという欲求があります。私の考えるコミュニケーションはそういった欲望の力をかりて、バタイユの言う交流を図ることです。単純な自己顕示欲や、他人と操ろうという建前をおいて新しい自分へと至ろうとするのです。コミュニケーションとして創作行為を捉えると、話したり書いたりすることで建前として他人に言い聞かせる体裁をとりますが、その実狙っているのはもやもやとした自分の存在を異物として吐き出し、それを消化することで新しい有り様の自分へといたることなのです。私は創作行為を支えるのは単なる自己顕示欲を超えたこのような欲求だと思います。(自己顕示欲はそのための道具ということです)
 また他人の言説や創作物を受け取り感じることもわたしはコミュニケーション足りえると思います。単純に相手の伝えたいことを理解するという単なる伝達を(これにも実は他人を操作してやろうという欲が働いています)建前として掲げていますが、運がよければ自分も新しい自分へと至れるかもしれませんし、異物と混ざり合い格闘することで相手とは別の方向に変化することができるかもしれないからです。
 私はこのようにコミュニケーションを捉えています。実際誰かと分かり合ったところで安心こそすれども面白いことなんて一つもありませんし、コミュニケーションを単にコンセンサスを得るための行為とするならば、所詮は自分の言っていることを相手に言い聞かせる洗脳ゲームでしかありません。少なくとも私はそんなものには飽き飽きしています(実際世の中には建前ではなく本当に洗脳ゲームに明け暮れる人たちがたくさんいます)。

コミュニケーションとはいかなるゲーム(遊び)か

 ここで表題になります。「いかに物事をたのしむか」でも述べたように私は「面白い」を価値基準にしています。このコミュニケーションも面白いゲームだと思います。建前として相手の伝えたいことを理解したり、相手に何かを伝えたりといった洗脳合戦の体裁をとり、その振るまいの中でどう戦略的にコミュニケーションをするかという営みは非常に面白い物です。
 例えばアニメや漫画は建前としてエンターテイメントという体裁があります。当然それにのっとって作品は作られます。しかし中にはその単純な娯楽の枠の中で私の言う意味でのコミュニケーションを図ろうという面白い物があります。それを受けて娯楽作という建前も踏まえて受け手もコミュニケーションを図るのであり、それはいかに面白く作品を楽しむかという受け手の熱意によって生まれます(当然作り手にとって好ましいような楽しみ方にならないこともよくあります)。
 このような独りよがりで戦略的なゲームがつまらないわけがありません。

 



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2008年2月12日 (火)

イジメかっこ悪い?

 アニメの『シゴフミ』でイジメがネタになっていました。話自体はべつになんと言うことはないのですが、イジメの嫌な感じを非常にうまく表現されていました。コンパスでさしたり、人間競馬はさすがに現実的では無いですが、女子がイジメにどう関わっているかという感じが非常にうまいと思います。私も中学のときにいじめられていたので、あの独特な死にたくなるほど辛い感じを表現したのはすごいです。
 今回はイジメについて語ろうと思います。よくテレビなどで教育関係者や評論家(気取り)や政治家たちが「イジメ問題」を語ると、面白いくらいに本質をはずしてむちゃくちゃな議論をします。イジメは単なる傷害事件を見るような見方では、それほどたいしたものではなく、日本の個のあり方という観点を踏まえなければそのえぐさを知ることはできません。
 日本に限ったことではないのでしょうが、実は人間はそれほど強い個というものを必ず持っているわけではありません。社会や共同体、他人の中で自分がどう思われているかという、他者の中の自分の姿を自分自身に投影してかろうじてアイデンティティーを保とうとするものなのです。つまり周囲に自分を承認してもらうことで、自分の形が決まっているということです。日本はこういった社会への存在の依存度がかなり強い国です(というよりも依存するような人間を育てるように教育がなされている)。
 こうなると他人の自分への評判が即ち自分であると本気で思うようになります。この自分の存在の形を他者に決定させるという現象は、俗物には本当に理解できないものだと思います。エヴァでいうと、シンジ君が「エヴァのパイロット」という他人からの評価を自分の存在の形に採用したことを思い浮かべてください(そして周知のようにそのために苦しむ羽目になります)。世界と自分とを等号で結ぶために、自分を世界にあわせるという対自的意識の現象と捉えてもよいでしょう。
 イジメの辛さの本質は、周囲から存在を否定され、それがダイレクトに自分で自分の存在を否定しなければならなくなることにつながることです。これは実際日本のような国では殺されるのと同じことです。「イジメ問題」で踏まえるべきことは、日本のような国では周囲から存在を否定、あるいは嗜虐の対象になるということが、個人の存在に致命的な威力を発揮するということです。
 またイジメる側も自分の存在を共同体と照らし合わせているので、主体的な判断ではなく共同体としての意識で行動します。つまりイジメは共同体験であり、一種の祭りです。火種が、誰もが持っているデュオニュソス的な嗜虐性なだけで、いじめることによって自己承認がなされるのですから、やる側にしてみたら面白くてやめられるわけがありません

 長々と説明したようなことがどうやら即物的な俗物どもにはこういったことが理解できないらしく、まともな議論を聞いたことがありません。宮台真司氏ぐらいしかまともなことを言っている人を知りません。

 蛇足としてイジメについて建設的な提案をして話を終えようと思います。

 ・いじめる側について
 愚民どもを抑える規律も当然必要ですが、デュオニュソス的(興奮と陶酔に結びつき、それゆえに血なまぐさい物)な物が人間と不可分であることを認めるべきであり、何かしらのデュオニュソス的な物、場、体験を用意すべきです(PTAの糞ババァどものせいでそれが今日本に決定的にかけている)。わかりやすく言えばガス抜きです。

 ・いじめられる側について
 個人的にはイジメは悪ではないと思っています。というのは社会の構成要素の大部分がイジメをするような人間で構成されているため、社会がイジメは「悪」であるといってもそれは欺瞞でしかありません。
 いじめられた人には二つの道があると思います。それでも他者に自己承認を求め続けるか(これは結局いじめる側の人間と同レベルの人間であり続けることを意味します)、自分が社会には認められえない存在と割り切り、自分だけの楽しみを見つけて、社会と自分の存在とを積極的に切り離すかです。私はお分かりのように後者を選びました。
 しかしいずれにせよ学校には行くべきではありません。本田透が「いじめられて自殺するくらいなら不登校になれ」とかいう本を書いていますが、まったくの同感です。彼の考えははっきり言って滅茶苦茶ですが、結果的には一致することがよくあります。私は卒業まで学校に通いましたが、中学なんて行かなければよかったと今でも思っています(行かなくても大学には行けます)。次回あたりに語ろうと思ってますが、私は「コミュニケーション」を一つのゲームとして捉えています。いったんイジメられると最早そのゲームに勝ち目はありません、負けが決まっているという意味ではその時点でゲームですらありません。

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2008年1月16日 (水)

ダブルスタンダードで行こう♪

 とりあえずまず次回予告です。次回はいつになるかわかりませんが、今度は「少女革命ウテナ(映画)とオトナ帝国」です。でもその話の前に「社会的規範」と「個人的規範」の話をしようと思います。
 社会そして個人には「規範」が有ります。規範は「かくあるべし」という道徳的なものであると同時に、「かくある」という世界に対する認識でも有ります。
 一番有名な規範がキリスト教でしょう。キリスト教にはキリスト教の世界観(「かくある」)が有りますが、同時にその世界観が同時に道徳を作っています(「かくあるべし」)。例をとると「人は神の子である」(かくある)したがって、自殺をすることは神のあたえた命を無駄にすることだから「自殺は罪である」(かくあるべき)としています。
 ほかにも「人の命は尊い(したがって奪ってはいけない)」や「未来には希望がある(有るべきである)」などのさまざまな規範が有ります。
 「死刑!!」のときにもいいましたが、社会は構成要素である人間を管理する一種の監獄です。その群れる人間を管理するために価値観や道徳、つまり「規範」を個人に植え付けます。この管理のための規範を「社会的規範」と呼びます。わかりやすく言うと社会は個人に「嘘」を吹き込んでいるわけです。

 話はそれますが、今の日本の一番の問題は「社会的規範」に在るといってもよいでしょう。『希望格差社会』(これは今の社会不安を知る上で参考になる本です)という本にもあるように今の日本には、かつての日本にあった「明るい未来」という希望(「未来は明るく、努力すれば報われる。だから努力しよう」という規範)のもつ説得力が有りません。ゆとり教育とかほざいている一方、社会に出れば情け容赦ない「自由競争」と、それによって発生した格差社会です。「自由競争社会」はアメリカなどの国の規範には合うかもしれませんが、日本の規範や、私が受けていた道徳の授業の吹き込んでいた規範にはまったくそぐいません。
 また「人間は美しく、醜くない(よってそうあるべき)」という規範(恐らく海外から輸入された規範)もまったく人間の実情からは乖離しています。例えば金融市場にはいかに人を食い物にしようかという魑魅魍魎が跳梁跋扈しています。またポルノを否定する人たちは、男がいかにスケベな生き物であるかということを理解していません。人間の美しさというものがあるとすれば、それはウラにそういったスケベで醜い面がべったりとくっついていて、オモテの美しさを支えているということを忘れてはいけません。
 未来への希望や美しい人間(あるいは国)といった「嘘」が、信じろというほうが無理なのにも関わらず、それを規範として押し付けていることが今の日本の決定的な病理だと思います。

 社会的な規範は社会の吹き込んだ「嘘」ですが、その規範がまったく必要ないかというと、私はそうは思いません。今更原始時代に戻ることができないように、私は社会がなければ生きていけません。社会を維持するためにはやはり「人の命は尊い」といった規範が当然必要です。
 またそういう嘘は信じられる人間は十分に幸せだと思いますし、嘘だと知ったところでいいことなんて一つも有りません。だまされているうちが華です
 ですがそういった社会的規範を嘘だと知り、とても信じられない、あるいは受け入れられない人間はどうすればいいのか、そこで私が提案するのが「個人的規範」です。
 これはいわば自分で考え、自分に課す規範です。そして所詮は嘘です。
 私ferdinandが一番好きな小説家はセリーヌ(フェルディナンドの名前は彼から取りました)なのですが、かれの出世作『夜の果てへの旅』という作品の中にこういう一節が有ります。

 「世の中の本質は嘘が死かだ」

 生きていく以上は(自覚しているかどうかは別として)自分に嘘をつき続けなければ生けないということです。嘘をつき続けられなければ死ぬしかありません。あくまで個人的規範も嘘に過ぎないということです。
 表題にある「ダブルスタンダード」というのは、社会の問題に関わるときには「社会的規範」(社会を守るために必要な規範)によって考えますが、私個人の問題を考えるときには「個人的規範」(自分のための規範)で考えるということです。
 例えば社会的規範から言えば少子化問題は解決すべきですが、私の個人的規範では私は結婚なんてできませんし、2次元のみを愛していこうと思っています。
 このような矛盾した態度をとるのは市民の義務の放棄として非難する人が当然いらっしゃるでしょうし、おっしゃるとおりです。しかし個人的なことと政治的なことを混同することはそれよりもはるかに危険なことです。なぜこのような立場をとる必要があるのかを次回のウテナのところでわかってもらえるかもしれません。

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