経済・政治・国際

2008年10月24日 (金)

暗黒の時代が始まりますね

 だいぶ更新をサボっていまい、期待していた人がいれば申し訳ありません。
 さて今期のアニメですが、なんというか微妙です。強いて言うなら、妖奇士でほされたとおもっていた錦織博氏が「とある魔術の禁書目録」で復帰したことでしょ う。ただ第2話でスプリンクラーでルーン文字を消したくせに、炎の魔人みたいなの(丁寧に3000度もあるといってました)がいるくせにスプリンクラーが 作動しないというのにがっかりしてしまいました。

 夏ごろまで妙な不安と閉塞感を漠然と感じていましたが、やはりサブカルチャーは時代の空気を体現するのでしょう。エヴァの劇場版ともののけ姫とブレンパワードいう最高に狂っていたアニメが公開されたのは1997年という99年よりも世紀末臭が漂う年でした。そしてまったく先が見えないくせに、未来が明るくないということだけがわかりきっている21世紀に『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』の不気味な空気に下塗りされた2作品が公開されました。

 パトレイバー2は冷戦構造の中で日本が上手く立ち回ることで、他国での戦争による繁栄と、その現実から目を背ける欺瞞に満ちた平和を享受していたということが前提にありました。しかし冷戦が終わりグローバル化が進むにつれ荒川の言う「罰」を受ける時がきまたようです。
 虚栄の蜃気楼が長続きはしないのにもかかわらず、その蜃気楼の無菌室の中で培養されたのがロストジェネレーション以下の世代です。上昇していくサクセスストーリーという虚構と、ずっと変わらずに惨めに老いて死んでいくしかないという現実の間で板ばさみになって、いつか悲惨な終わりを告げる終わりなき日常を生きているわけです。明らかに活気のない若者に対しいかに説教してやろうかということで押井守と宮崎駿が(本当は庵野秀明が加わる1997年以来の熱い展開のはずだったのでしょうが、案の定間に合いませんでした)名乗りを挙げたわけです。
 押井監督のスカイクロラは、監督が最も苦手とするラブストーリーでした。押井監督は日常がいかにつまらないかというのは得意ですが、逆に情念のぶつかり 合いの情愛を描くのは不得手な印象があります。押井監督はパトレイバー2で偽善の平和と、現実の戦争という対立には物語として回答を出しましたが、都市の 中で人々がたたずむ幻を超越した彼岸の人である柘植にどう対峙するのかという要の所では、結局南雲さんと柘植のラブストーリーでお茶を濁してしまいまし た。パトレイバーの時は逃げであったラブストーリーを今回は敢えて真正面からぶつかったという感じです。
 現実なんてぶっちゃけつまらないものです。うんざりするほどつまらない現実を生きる支えとしては「ささやかな」幸せしかないわけです。押井監督はこのささやかな幸せとして恋愛を持ってきたのでしょう(個人的には支えのなさそうなミツヤさんとあり地獄のような情愛を演じてみたいところです)。延々ともろい平和を維持するために、出来レースの絶対に負けないし、絶対に勝てない戦争を延々とやらされ続け、たとえ死んでも生き返らされる無間地獄のような日常に、ささやかなあきらめに似た希望を得る物語を上手くつくることが出来たと思います。現実には完全に絶望しかないとは捨てきりたくはないが、かといって未来は希望にあふれているなどというたわごとはそれ以上にやりたくないという要望を上手くかなえることが出来たでしょう。

 スカイクロラはベタに絶望的な閉塞感と弛緩した息の詰まる日常を描きましたが、ポニョは鮮やかな色に彩られた絶妙な質感のある楽園を描きました。しかしポニョは不気味な映画で、実のところスカイクロラと同じくポニョの根底にあるのも「現実はつまらねぇ」というのは間違いないのですが、ポニョは厭世観を裏返しにしたユートピアの映画でした。しかしそのユートピアが美しければ美しすぎるほど、それが強烈な現実逃避の証であるわけです。私は映画を見ている間ずっと「あぁ宗介かわいいよ宗介。やっぱ二次元はいいよなぁ、それに比べて三次元ときたら・・・」と思っていました。
 宮崎駿はナウシカ以降中途半端な映画を何本か作っていました。庵野秀明が言っていたように、映画がクリエイターが自分をむき出しにしてぶつかっていくストリップだとしたら、「魔女の宅急便」「紅の豚」「耳をすませば」は肝心なところでパンツを脱がなかったへたれの所産です。現実は地獄であるのは当人が十分承知のくせに、自身の卓越した表現力により描き出した妄想を現実に混ぜ込んでオナニーをしているようにおもいます。ところが「もののけ姫」で監督は自身の抱えていた政治的な苦悩に全力でぶつかりました。文明と自然、繁栄と平和の矛盾という、どう考えても答えが出るわけのない難問に本気で苦悩し、当然答えが出ないまま公開しました。プロットとしては最低ですが、本気でぶつかった姿勢は最大限評価します。
 「もののけ姫」で真っ白に燃え尽きたのでしょう、そのあとの「千と千尋の神隠し」はいわば遺言だと思います。宮崎駿はもう彼岸の人で、完全に俗世間のことから超越してしまっているのです。ポニョはもののけ姫以前の作品群を連想させますが、ポニョが一線を画しているのは「現実はすばらしい」という虚勢を張るのではなく、この世の夢を描いたということです。
 ただ私にはそんな映画が大ヒットする理由はぜんぜん理解できません。本来こんな映画は、現実に無駄な期待をする恐れがあるので、スカトロに匹敵するほど子供に見せてはいけない映画です。子供を元気にするためにこの映画を作ったのでしょうが、これから先の日本には絶望しかありません、絶望とこの理不尽な状況を通過儀礼として知っている人間だけがこの映画を見る権利があると思います。

 宮崎は微妙ですが、押井がやろうとしたのは若者に対する「人生そんなに悪いもんじゃないぜ」という説教です。説教とは役に立たないものです。というのも人の人生に積極的にかかわろうというのならば、相応の責任を伴うもので、良かれと思おうが思うまいが殺されるくらいの覚悟が必要なのです。説教は相手との関係性を棚上げにして、自分は安全なところにいるくせに人の人生に干渉して「自分は相手のためにしてやった」という満足を得ようという、無責任極まりない本来万死に値する行為です。幸いにして聞く側も「こいつは肝心な時に何もしてくれないくせにえらそうなこといいやがって」と軽く聞き流すので効果はありませんが。
 2作品は説教で上記の理由から効果はまったくありませんし、宮崎駿の場合は「生きていることには価値がある」という嘘っぱちをのたまう、邪極まりない偽善な目的を設定した作品ですが、ともに映画としては非常にすばらしいとおもいますす。

 先の金融危機を発端に世界の勢力地図が大きく変わると私はにらんでいますが、政治家が目をそむけ続けた外交的問題、経済的問題、社会的問題を解決しない限りは日本は10年と持たないでしょう。少なくとも今年の終わりごろから確実に景気は悪化して、ただでさえリセッション入りしていたのがさらに悪くなり、今は時代の転換点であると同時に暗黒の時代への突入前夜であります。
 はっきりいってかなりやばいですが、逆にこの絶望をになったどんなアニメが出てくるのか非常に楽しみにしています。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2008年8月 6日 (水)

秋葉原通り魔事件

 やっと院試が終わりました。まぁ何とかなるでしょう。あとは資格の試験勉強をしなければいけないのに、ハイデガーの『芸術の根源』なんて本を読み始めたり、エロ漫画を買いあさったりでぜんぜん勉強に実が入らない・・・

 あと児童ポルノ法改正の反対の有志になりました。大学でビラを貼ってくれとの依頼があったので気が向いたらやってみます。

 いまさらですが秋葉原の通り魔事件について話します。なぜ今かというと、みんな忘れたころだろうから、あえて旬をはずしてみます。この手の事件は流行に乗って語るとどうしようもない文章になるからです。

 秋葉原で起きた通り魔事件ですが、この事件の加藤容疑者が携帯電話で書き込んでいた文章を読んだときに、よくある凶悪事件とは違う非常にクリアーな犯人の動機が理解できたような気がします。この事件は今の日本の閉塞的な状況があると思います(私の勝手な妄想ではありますが)。なのでいつものように私の勝手な見立てでではありますが、この事件を今の日本の状況に当てはめてみようと思います。

 今の日本の根本的な問題は「規範」にあるというのが私の持論です。国家が人々を社会の監獄の中に閉じ込めているのに、恐らく理由など無いのでしょう。仮に理由があったとしても日本国憲法にあるような国民を幸福にするためのモノではないでしょう。そして国という牧場を経営するためには家畜たちにもやもやとした幸せな未来や、安心感や承認を与えさせる必要があるわけです。これが「規範」としての希望です。
 こんな「希望」は何の保証もない無責任なホラなのですが、社会が発展途上で不完全な物という共通の前提があれば機能してくれます。焼け野原から立ち上がっていくという共通前提のあった戦後の日本がそうでした。希望のミソは、未来が不透明であることと、希望の求めるところ自体がなんなのかよくわからないけど素晴らしいらしいものであるという点です。人間は所詮たんぱく質の塊ですから、その一生なんてたかが知れてます、どのみち惨めに朽ちて死ぬしかないので、希望を持たせるには具体的な未来のことなんて考えさせない方がいいわけです。

 しかし今の日本はかつてとは違い未来は非常にクリアーであり、それはどう考えてもお世辞にも素晴らしいものとはいえませんし、個人の将来のレベルでも「勝ち組」「負け組」というクリアーで即物的な幸福感しかありません。この期に及んで「明日はきっといいことあるよ」とか抜かす奴はぶっ殺した方がよいでしょう。
 まぁウソも方便というようにその「希望」というホラを信じてそこそこ楽しくやっていければそれで人間幸せなのでしょうし、きっと幸せなんてその程度の物です。しかしいまの社会の刷り込む規範は信じて「そこそこ楽しく」やっていけない規範です、はなっからうそだとバレバレなホラです。これは今の深刻な政治不信、しいては社会不振とニヒリズムを考えればわかるでしょう。
 小泉元首相は「痛みに耐えて」と熱弁をふるいました、痛みに耐えて希望の未来へと続くのでしょうが、結局うまい汁をすすったのは外資系ファンドの連中と経団連のクソどもです。今も安倍元首相の「鬱くしい国」路線は続行中です。
 加藤容疑者に関していえば、経済的な面では客観的にも彼には「希望」はありませんでした。昇進昇給の当てが一切無い飼い殺しの労働環境、完全に人間性を破壊し「希望」もクソもあったモンじゃありません。

 またかれは非モテでした、これが非常に重要な点です。人間はここではないどこかである彼岸を夢見る生き物です、特に男にとってはそれが女です。
 三島由紀夫が『不道徳教育講座』で「童貞を一刻も早く捨てるべし」と述べたのは童貞にとって女はとてもすばらしい、きらきら輝いたものでそれを手に入れれば(すなわちセックスすれば)絶頂に到達でき、自分の不完全なものが補完されるという下品な妄想を抱いているから、こんなロマンに満ちた「希望」をすてて「何だこんなものか」という現実に返す必要があるからです。男は希望は捨てて「夢」を見るようになるのです。
 昔は男は誰もがなんだかんだ言って女と一緒になれた(人間関係の仕組みがそれをセッティングするようにできていました)のですが、現在は童貞はほうっておけばずっと童貞です。マスコミはほとんど報道しませんが、実は非モテといわれる人々が増加していることは重大かつ深刻な社会問題です。彼らが増えると、結婚率が減り少子化が進み、社会的なリソースに恵まれない一生を独身ですごす人々が増え、そして何より「俺には彼女がいない」というルサンチマンを抱えた男が増加することになります。
 また非モテはどうしても一生を孤独にすごさざるを得ません。常に他人におびえそのくせ他人をさびしがる人々(人間とはこういうものです)がなんらコミュニティから囲まれないという今の日本の現状は本気でどうにかしたほうがよいと思います。
 東浩紀がこの事件をテロ(本当は勝谷が私の知る限り一番早くこの事件をテロと位置づけていますが、彼がこの事件の本質をどの程度理解しているのかはわかりません)としていますが、私はテロという言葉を恐怖によるコントロールとして使いたいので、私の言葉で言うとこの事件はルサンチマンからくる社会への復讐であり、わかりやすくいうと駄々です。
 疎外感を持っている人間はメディアで取り上げらないですがかなり多くいるでしょう(具体的にはわかりません)、派遣労働法は変えるべきですが、希望の喪失と非モテという問題を解決しなければその法律を変えた程度ではこのような事件はおき続けると思います。

 また2chの掲示板等では加藤容疑者に共感する声が多く、またそれと同じくらいにこの事件を非難する声があります。私としては加藤容疑者が死刑になろうがなるまいが正直どうでもいいです。また声高々に「許せない」と叫ぶ気もありません。犯人よりもこんなテロが起きなければ非正規雇用が増加することを危機として認識できないマスコミや政治家どもに対して怒りと失望を向けてしまいます。また私はとっくの昔から司法の正義なんてものは信じてませんし、知りもしない人間が容疑者も含めて高々数人死んだ程度ではなんとも思いません。加藤容疑者に怒りがあるとすれば事件を日本の文化の最後の砦の秋葉原で起こしたことくらいです。もし霞ヶ関や六本木ヒルズやネズミの国やヴィーナスポートで起こしていれば拍手していたでしょう。
 
 こういう駄々を肯定するかといえば、日本という社会を守る立場から言えば当然否定しますが、正直こんな国や馬鹿な国民は守る価値があるのか私には疑問ですので簡単には否定できません。はっきりいえるのは責める気にはなれないということです。私の中にも彼が抱いたような絶望やルサンチマンは紛れも無く存在しますし、こういった状況の中で「生きる」というゲームは社会が認めるルールの中では絶対に勝てることのできない糞ゲーです。勝てないゲームをしなければならないのが道理ならば無理を通すことを否定はできないでしょう。社会的な道徳や幸福観という勝てないルールで戦ってはだめなので、暴力というルールを通すのもアリです。
 まぁ国内最強の暴力機関である警察には勝てないのでそれも勝てないルールですが、このまま日本の現状を放置しておけば警察どころかこの国は確実につぶれます。
 ガンダムのキャラクターデザインで有名な安彦良和氏はアニメージュで、今はひどい時代だけれど、これからよい方向へ向かうだろうし、若者の絶望はわからないでもないが、人として許されないことだけはしないでくれと述べていました。学生運動をしていた安彦氏だから思うところがいろいろとあるのでしょうが、人として扱われない阻害された人間に、人としての道徳を要求するのは虫が良すぎるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月13日 (日)

松文館裁判 

 最近いろいろなことがありました。今週から学校が始まるのでゼミの準備で本を読み始めたり、アニメの入れ替えが始まったり、かのこんとTOLOVEるが始まって日本が終わったり、若松孝二の映画を観たりとホントいろいろです。

 更新が遅れましたが、前回の続きとポルノの規制について今回話をします。前回もところどころ私の押し付けがましい主張がありましたが、今回はそれしかありません

 二次元のポルノの前に三次元のポルノの規制について軽く話そうと思います。
 アダルトビデオやエロ本は戦後延々と規制され続けてますが、警察とかの司法機関が取り締まる訳ではないです。実際は映倫やビデ倫といった機関が検閲をしています。(マンガ等の出版物は出版社の自主規制が主です)。凄まじい量のエログロコンテンツが生産されている中で一定の普遍性を持ったアウトゾーンを決めるのに、前回前々回で述べたような私の言うわいせつと法的な猥褻によって対処するのは不可能です。したがって具体的なコードによってビデ倫の規制や自主規制をしています。
 つまり槍玉に挙げられるような場合を除いて、現実の規制には「どれだけ過激だ」とか「反社会的である」とかいう基準は用いられず、機械的に認識するコードを用いています。早い話がマンコとチンコ(かつてはアナルも)を映さなければ(描かなければ)いいというわかりやすい規制をしています。
 当然ですが猥褻か否かがこんな風に機械的なコードで認識できるわけがありませんが、日本は長い間コードによる規制で満足していたのです。だからどうしたと思うかもしれませんが、実は世界的には特異なのです。欧米ではポルノは無修正が基本ですが、槍玉に挙げるときは存在を完全に抹殺する勢いです。『ネクロマンティック』というネクロフィリア(死体との性愛)を描いたドイツの映画があったのですが、裁判所はこの映画にフィルム焼却処分を命じました。私は2年ほど前、フィルム焼却処分になったはずのこの映画をTSUTAYAでレンタルしてモザイクつきでみることができました。『愛のコリーダ』が日本ではモザイク付きでしか見れないことと対照的な例だと思います。
 つまり日本はモザイクさえかければ死体と姦ろうが、ウンコを食べようが問題ない国でした
 ところがここ数年で状況に変化が起こりました、変化の一つはご存知のようにインターネットの登場です。海外の無修正動画が簡単に見れるようになりましたし、裏ビデオの通販も簡単にできるようになりました。「赤信号みんなでわたれば怖くない」という格言のように既成事実として無修正動画が氾濫し、もはや局部を神経質に隠す意味が現実的にはなくなりました。もう一つの変化として政治家や馬鹿なババァ共が、見たら嫌な思いをするとわかっているアングラな世界をわざわざ見て、キーキー騒ぐようになったことです。
 もともとポルノで局部を隠すことに意味があるとは思えません。大半の人間は一生童貞、処女でもない限りいつかは見ることになるわけだからです。しかし私は映倫は大嫌いですが、ビデ倫はほめてもいいと思います。ポルノを見ているときはモザイクはうっとうしいことこの上ないですが、隠されるからこそ余計に妄想を熱く膨らませることができるのです。私は無修正のポルノを見たときに非常にがっかりしたのを覚えています。モザイクのおかげで日本人は世界最高峰のスケベな民族足りえたと思います。
 現在の無修正だらけの状況が、どういう結果へとつながるのかはわかりませんが、少なくとも無修正を取り締まる法律はザル法であるということはいえると思います。
 以上が私の知る限りの実写もののポルノの規制についてです。

 タイトルにあるように以降二次元のポルノの規制について語ります。
 エロ漫画の規制は基本的にPTAのバカなババァ共が槍玉にあげて有害図書として攻撃するというのが典型です。しかしエロほど普遍的なものはこの世には存在しないので、エロ漫画は影の世界で非常に濃ゆい営みを続けていました。マンガに関しては倫理規制をする人たちがいないので基本的に自主規制なのですが、アダルトビデオに比べてかなりゆるいです(出版社によって差はありますが)。例えて言うならお茶漬け海苔が申し訳程度に貼られているといた感じです。
 前回紹介したように松文館という出版社のエロ漫画が摘発されました。この裁判の弁護側の主張の重要な点を述べる前に、エロを規制する理由について語ろうと思います。
 エロやグロで嫌な気分になる人がいるというのと、真似する奴がいるというのが規制をする口実です。しかし私が思うに自分のもつ規範とたがえるものがフィクションとして存在することが許せないというヒステリックな要因が強いと思います。
 現実と虚構とは何かというと、何だって認識をしている以上は虚構であり、現実は虚構より先にあるとされているものです。人は現実を規範によって組み立てるのですが、即自的とでも言うのかその現実のなかに自分を溶け込ませています。つまり自分の持つ規範から逸脱した物に対峙したとき、自分が侵食されることへの拒絶反応を示し、受け入れたり排除しようとします。
 わかりやすい例がハンセン病患者の隔離でしょう。大抵の人間は「人は美しいものである」という現実の中で生きています。ところが顔が醜く変形したハンセン病の患者を目にすると、「醜い人間」が「美しい人間」を侵食し、必死に「醜い人間」を現実から排除しようとします。おもしろいのは個人レベルの行動でその拒絶反応が起こるのではなく国家レベルでそれをやるという点です。
 人間の羞恥心は、変な話ですが人間の最も根本的なエロスを汚い物として排除しようとするのです。キリスト教社会がアブノーマルな性を持つ人間を徹底的に抹殺していたことを思い起こしてください。
 裁判の話に戻しますが、精神科医の齋藤環氏はいわゆるオタクは3次元の現実と2次元の現実をパラレルに扱う人たちであり(これが彼のオタクの定義です)、2次元での性欲を3次元での性欲に発展させるのはまれであり、エロ漫画を読んで実際にことを起こすことはまれだと主張しました。さらに社会学者の宮台真司氏は、ゾーニング(すみわけ)がなされていれば「見たくない物を見ない」権利は守られるし、暴力的なフィクションに慣れ親しんだ人が暴力的な行動に走りやすいという強化効果説は一時的には成り立つが、長期的にその人を暴力的な人間にするというのは統計的には証明できていないこと、そしてむしろ犯罪を抑止する効果すらあるということを踏まえ、アダルトコンテンツが必ずしも性犯罪の増加にはつながらず抑止する可能性もありえることを述べました。
 判決文は(ネットで見ることができます)齋藤氏、宮台氏の証言を理解していたとはとても思えないような物で、チャタレイ裁判とサド裁判ときて時代が経るにつれて裁判官の質が劣化していってるのがよくわかります。「こんなものけしからん!!」というチャタレイ裁判とサド裁判のほうがまだ筋が通っていました。判事は一応日本でトップクラスの難易度を誇る試験を潜り抜けた人のはずなのに、結局は上に挙げた様なヒステリックな理由でしか判断を下せないバカになっているのです。いかに日本の司法が末期的な状況に陥っているかをうかがわせます。

 個人的にはポルノによって犯罪に走る人間が存在するのは本当だと思います。しかしポルノによって犯罪に走らずにすむ人間の方が圧倒的に多いでしょう。人間には汚い面がいろいろとあるのですから、それを排除するよりもうまく付き合うようにするのが重要です。
 有害なメディアによる青少年の健全な育成の阻害というのは取ってつけたような言い訳です。それより危険なのは、裸や死体を見て嫌な気分になるだけではなく、ビビッてしまうような軟弱さのまま大人になってしまうことです。私みたいに一生処女童貞のまま終わることを前提にしているのなら別ですが、社会が成り立つためには大部分の人間が他人の裸を拝む必要がありますし、現実に世界では戦争があり、日本の経済的繁栄はなんだかんだいってその戦争に支えられているということを知らずにいていいわけがありません。
 見たくない物を見ない権利を勝ち取るためには、自分がどういうものを見たくないのかを知る義務あり、そのためには見たくない物を見ないとダメです。
 児童ポルノ法を強化しようとするババァどもは、自分が子供を虐待から守りたいのか、子供が性の対象としてみることが許せないのかの区別をするべきでしょう。後者は明らかに憲法の思想信条の自由に反していますし、憲法以前に他人の性癖にとやかく注文をつけるのは止めましょう

 追記として野田聖子や公明党の議員のようなバカが「アニメ産業を国際的に展開させていくために、過激な性描写を取り締まるべきだ」という旨の発言をしますが、それについてコメントをして今回の更新を終えます。
 日本の文化の優位性は、『ネクロマンティック』やセリーヌの政治的パンフレットが存在することができるという無法さに支えられているといってよいでしょう。アニメの発展にくりぃむレモンのロリや川尻善昭のエログロがいかにアニメの発展に貢献したかを知ってからものをいいましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月28日 (金)

いやぁ~、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ

 ガンダム00がすごいことになってますねぇ。三木さんと藤原さんのテンションの高さに驚きました。キャラ大虐殺は富野ガンダム(ターンAは除く)の定番ですが、禿は基本的に死亡フラグとかはたてない無いので、フラグびんびんの00は、時代の変化を感じさせます。
 コーラは死んじゃったのか、くぎゅぅとちわわに見せ場はあるのか等、気になる点が多いですが2期を待つしかなさそうです。まぁ「お前のケツの穴を狙い撃ちたい」というネタが使えなくなることだけは確かだと思います。

 まったく関係ない話ですが、前回の更新で「ロザリオとバンパイア エロ」の検索ワードに引っかかった人が結構いたみたいです。全然そんなつもりは無かったのですが、だますような結果になってしまって申し訳ないと思います。皆さん夏まで待ちましょう。
 ところで前回は澁澤龍彦の「悪徳の栄え」についてふれました。そのあとでたまたま伊集院光さんのラジオを聴きました、伊集院さんはアダルトビデオについてどこからどこまでがOKなのかということを話題にしていました。伊集院さんは非常にすっきりした正論を述べていましたが、日本における「わいせつ」の歴史、性表現の規制の歴史を知らないんだろうなという感じがしました。恐らく私が性表現の検閲の歴史については常識だと思っているようなことが、一般的にはあまり知られていないようです。ということで今回は性表現の規制の歴史を解説します。次回はその続きと私の意見を述べようと思います。

 私はエロ漫画が大好きです。抜くか抜かないかという、単純なポルノとしての枠の中で、どれだけポルノにとどまらず漫画としての技量、個性を出すかという奥の深さ、そしてそれに自分がどう向き合い、楽しむかという面白さがたまりません。ただ1冊あたりの値段が高いので古本屋を利用することが多くなります(自分のニーズに照らすと玉石混合だというのもあります)。
 古本屋で物色をしていたところ、定価の3倍以上の値段で売られている漫画がありました。ほかの漫画が定価以下の値段で売られているなかでは、その漫画は明らかに異質でした。そのプレミアのついたエロ漫画というのが実は裁判で発禁を食らった「蜜室」という、その筋の世界では有名なエロ漫画でした。私が戦後のわいせつ裁判として(刑法175条猥褻物領布罪が適用された裁判)重要だと思うのは伊藤整のチャタレイ裁判、澁澤龍彦のサド裁判、そしてこの「蜜室」が訴えられた松文館裁判の3つです。

(下の三つの裁判はどれも出版した人も訴えられてますが面倒なので省きます)

 1 チャタレイ裁判
 これは戦後間もない日本で起きた、政治経済の教科書にはたぶん載ってる(私が高校生のときは載ってました)有名な裁判です。
 イギリスの作家D・H・ロレンスの書いた「チャタレイ夫人の恋人」という、作家の妻と庭師の不貞の愛を描いた作品を、伊藤整という日本の作家が翻訳しました。この作品は妻と庭師の情事が非常にこと細やかに描かれていることから、猥褻であるとして訴えられました。伊藤整は最高裁まで争ったのですが結局猥褻であるとして、この小説はいくつかの部分を削除(*で伏字になりました)されました。法学的に重要なのは、憲法にある公共の福祉と表現の自由との衝突で、公序良俗に関しては表現の自由は制限されるという最高裁の判例ができたことと、またこの裁判で猥褻とは何かということを、一応形にしてみた猥褻の三要件が決まったことがあります(当然のことですがここで定められる猥褻と、前回三島由紀夫や私が決めたわいせつは違います)。以降の裁判はこのチャタレイ裁判を基準にして決まるようになってます。

      猥褻の三要件
     1 いたずらに性欲を刺激する
     2 正常な人間の羞恥心を害する
     3 善良な人間の性的道義心に反する

 後日譚として伊藤整の息子伊藤礼が、伊藤整版の『チャタレイ夫人の恋人』を、些細な誤訳等を治してほぼ伊藤整版に近い形で出版しましたが、何の問題も無いようです。当時の規範に照らせば猥褻なのでしょうが、今これを猥褻だといえば鼻で笑われるでしょう。すくなくとも2,3の「正常な人間の羞恥心」、「善良な人間の性的道義心」は時代によって変わる物だということです。(もっとも最高裁の判決文では猥褻が絶対的なものではないということが記されています)

 2サド裁判
 マルキ・ド・サドのジュスティーヌ関連の物語のいくつかを、澁澤龍彦が翻訳しまとめた『悪徳の栄え 続ジュスティーヌ』が猥褻物領布として訴えられました。前回述べたように澁澤もこの裁判で負けました。
 しかしこの裁判騒動でで二つのポイントがあります。一つは裁判にかかわった澁澤や三島が、いわゆる猥褻が一切消滅した世界は絶望的なまでに味気無く、つまらない物だということをさまざまな場で発言したことです。もう一つが司法に携わる人間の猥褻か否かの判断が、単純に見る人間の生理的嫌悪感によるものでしかなく、実際にそういった人々は、局部が描かれているかどうかという即物的な理屈立てしかできない人たちだということが露呈したことです。
 この『悪徳の栄え』はアナルセックスか二本刺しがスタンダードで、終始一貫しキリスト教的美徳や道徳に糞を塗りたくってます。まさに阿鼻叫喚の糞尿地獄です。淫行、騙し、窃盗、虐殺がこれでもかとおこなわれ、その行為者たちは「いやぁ~生娘を犯して殺すのは最高だぜぃ!!」と幸福と満足の絶頂に至り、悪徳に邁進するものはますます繁栄を極め、美徳に従う者はとことん虐げられていきます。勘違いされないように断っておきますが、最初から最後までこの調子です、けっして悪党が成敗されるなどという軟弱な、安心できる展開は用意されていません。まさに「公序良俗糞食らえ」な作品です。前回紹介した三島が言う猥褻に当てはまるのは明らかです。しかしこの作品で抜けるという上級者はあまりいないでしょう。私もその域には達していません。つまり猥褻の3要件の1つ目をクリアしていないわけです(これが弁護側の論点でした)。しかし判決はこれを猥褻であると強引にこじつけました。豪華メンバーによって法廷で展開されたサド論のほんの一つまみでも裁判官が理解していたかははなはだ疑問です。
 作品の猥褻性が作品の文学的価値によって薄められるかいなかといったことを、まわりくどく延々と語っていますけれども、猥褻性と文学的価値を切り離して考えているあたりが、猥褻が表現の露骨さかいなかといったレベルでしか考えられていないのをうかがわせます。

 3松文館裁判
 これは記憶に新しいのでご存知の方も多いと思います。
 どっかのオッサンが自分の子供のエロ漫画を見て、その本を取り締まるようにとの嘆願文を手紙にしたため、警察OBの議員の平沢勝栄に投書したことが事件の始まりでした。すだれハゲは警察に取り締まるよう口利きをし、なぜか警察はそのエロ漫画を出版している松文館の別の漫画である『蜜室』を摘発しました。
 この裁判も証人に齋藤環氏(病気としての引きこもりの臨床、研究に携わる精神科医で、オタク文化の研究でも有名)、宮台真司氏(サブカル、哲学、政治と守備範囲の広い社会学者)、ちばてつや氏と有名人が集った豪華な物でした。
 この裁判はチャタレイ裁判やサド裁判とは違って芸術対公共の福祉という構図ではなかったこと(作品が芸術という「高尚さ」を持ち合わせていないということは共通見解でした)、初めてマンガという日陰の文化が槍玉に挙げられたこと、オタクの2次元におけるセクシュアリティーがどういうものであるか、本当に猥褻なるものが公共の福祉に反しているのか(適切にゾーニングがなされていれば問題がないのではないかということ)等のことが現実的かつ重要な争点であったことなどでしょう。
 またこの裁判も負けました。この裁判は次回詳しく述べようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年12月26日 (水)

死刑

 ブログを立ち上げて一発目の話題が「死刑!!」、人格を疑われるかもしれませんが、勝手に疑ってください。なお反論は当然あるでしょうから紳士的に反論してください。
 先日たまたまニコニコ動画で大島渚の「絞首刑」という映画がUPされていて、非常に貴重な映像資料なので見させてもらいました。映画の内容は「あなたは死刑制度に賛成ですか反対ですか」という問いから始まり、死刑が執行される様子の再現をするという10分程度の内容、さりげなく足立正生の名前があり(この人は私ferdinandが実際に目にした3大変人の一人です)、いろんな意味で貴重です。
 コメントのところを見ると、やたらと死刑の必要性についての熱いコメントが流れていましたが、私には死刑の必要性が理解できません。
 まず自分の生き死ににすら、さほど興味を持たない私が、どこかの可愛そうな被害者や加害者の生き死にに興味を抱くわけが在りません。またワイドショーなどのくだらない放送(ほとんど見ませんが)がなければ知ることすらない、他人の悲劇にやたらと熱くなる人の気持ちも理解できない。

 死刑の必要性の主張には二つの支点があると思います(というかこれ以外の主張は見たことがない)。一つは見せしめとしての刑罰、つまり「お前が犯罪をしたら、罰を下すぞ」という脅し、もう一つは悪人に対する裁きや、遺族の無念を晴らすためという、感情的な正義感です。
 一つ目の脅しとしての効果ですが、これは一理あると思います。たとえば私が万引きや暴行等の行動を起こさないのは、私がフーコー的な意味での権力の中に組み込まれているため、起こしたくても怖くて起こせないからであります。私がその権力の中に組み込まれる過程に法的な脅しがあるのは事実です。要するに御ロープ頂戴するのが怖いと体に染み付いているから、法を逸脱しないという簡単な理屈です。

 *ここでいうフーコー的な権力というのは「力」の関係のことです。平たく言えば、私の頭の中に私を監視する人間(警察)を設置しているために、例え誰も私を監視していなくても私は怖くて消しゴム一つ盗むことができないということです。(警察にいきなり追いかけられたら何もしてなくても逃げる人は多いでしょ)

 しかしこの法的「権力」の脅しの効果が発揮されるのは、具体的に刑罰を受けるという恐怖からではなく、体に染み付いた警察機構への恐怖からです(よって、警察機構に対する恐怖のない人間には脅しすら無意味です)。死刑以外の刑罰が存在しないくらい厳しい法制度化にある社会ならば別ですが、もっとも厳しい刑罰の象徴として死刑にこだわる意味は在りません。

 二つ目の理由ですがこれは論外です。まず法的刑罰とは、悪人に正義の鉄槌を下すためにでも、遺族の無念、怨念を晴らすためにあるのでもなく、上にあるように国民を「権力」の中に組み込むための脅しとして存在するのです。法や政治は感情的な「正義」でおこなうと完全に道を誤ります
 「感情的な(人道的なと言い換えてもいいかもしれません)「正義」を守るために法律があり、現に法がそのようにできているじゃないか」と反論する方がいるかもしれませんが、社会に権力の枠組みを作るために、「互いに傷つけてはいけない」といった安全保障が在った方が都合がいいから「人を殺してはいけない」という法があるのです。国家的利害がこの安全保障よりも優先される場合、国家は平気で人を殺します(例は腐るほど在ります)。
 「人の命は絶対である」というテーゼを国家は掲げますが、それを正当化するために死刑という「殺人」をおこなうことは、理由付の(正当防衛でない)殺人を認めることになりそのテーゼに矛盾をきたします。その矛盾を黙認するならばまだしも、自ら進んでその矛盾を推し進めようと叫ぶのはは少し頭が悪すぎやしませんか?
 そういったことを叫ぶのは大抵メディアの煽りを真に受けるかたがたであり、自分の憎しみが捏造されて、矛先が誘導されているということを自覚した方がよいと思います。

長々と駄文を並べましたが、最後まで付き合ってくれたことに感謝します。

 

 
 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)