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<title>怪文書発信所</title>
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<title>暗黒の時代が始まりますね</title>
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<description>　だいぶ更新をサボっていまい、期待していた人がいれば申し訳ありません。 　さて今...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　だいぶ更新をサボっていまい、期待していた人がいれば申し訳ありません。&lt;br /&gt;　さて今期のアニメですが、なんというか微妙です。強いて言うなら、妖奇士でほされたとおもっていた錦織博氏が「とある魔術の禁書目録」で復帰したことでしょ
う。ただ第2話でスプリンクラーでルーン文字を消したくせに、炎の魔人みたいなの（丁寧に3000度もあるといってました）がいるくせにス&lt;span style=&quot;color: #cc0033;&quot;&gt;プリンクラーが
作動しない&lt;/span&gt;というのにがっかりしてしまいました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　夏ごろまで妙な不安と閉塞感を漠然と感じていましたが、やはりサブカルチャーは時代の空気を体現するのでしょう。エヴァの劇場版ともののけ姫とブレンパワードいう最高に狂っていたアニメが公開されたのは1997年という99年よりも世紀末臭が漂う年でした。そしてまったく先が見えないくせに、未来が明るくないということだけがわかりきっている21世紀に『崖の上のポニョ』と『スカイ・クロラ』の不気味な空気に下塗りされた2作品が公開されました。&lt;/p&gt;





&lt;p&gt;　パトレイバー２は冷戦構造の中で日本が上手く立ち回ることで、他国での戦争による繁栄と、その現実から目を背ける欺瞞に満ちた平和を享受していたということが前提にありました。しかし冷戦が終わりグローバル化が進むにつれ荒川の言う「罰」を受ける時がきまたようです。&lt;br /&gt;　虚栄の蜃気楼が長続きはしないのにもかかわらず、その蜃気楼の無菌室の中で培養されたのがロストジェネレーション以下の世代です。上昇していくサクセスストーリーという虚構と、ずっと変わらずに惨めに老いて死んでいくしかないという現実の間で板ばさみになって、いつか悲惨な終わりを告げる終わりなき日常を生きているわけです。明らかに活気のない若者に対しいかに説教してやろうかということで押井守と宮崎駿が（本当は庵野秀明が加わる1997年以来の熱い展開のはずだったのでしょうが、&lt;span style=&quot;color: #cc0033;&quot;&gt;案の定間に合いませんでした&lt;/span&gt;）名乗りを挙げたわけです。&lt;br /&gt;　押井監督のスカイクロラは、監督が最も苦手とするラブストーリーでした。押井監督は日常がいかにつまらないかというのは得意ですが、逆に情念のぶつかり
合いの情愛を描くのは不得手な印象があります。押井監督はパトレイバー２で偽善の平和と、現実の戦争という対立には物語として回答を出しましたが、都市の
中で人々がたたずむ幻を超越した彼岸の人である柘植にどう対峙するのかという要の所では、結局南雲さんと柘植のラブストーリーでお茶を濁してしまいまし
た。パトレイバーの時は逃げであったラブストーリーを今回は敢えて真正面からぶつかったという感じです。&lt;br /&gt;　現実なんてぶっちゃけつまらないものです。うんざりするほどつまらない現実を生きる支えとしては「ささやかな」幸せしかないわけです。押井監督はこのささやかな幸せとして恋愛を持ってきたのでしょう（個人的には支えのなさそうなミツヤさんとあり地獄のような情愛を演じてみたいところです）。延々ともろい平和を維持するために、出来レースの絶対に負けないし、絶対に勝てない戦争を延々とやらされ続け、たとえ死んでも生き返らされる無間地獄のような日常に、ささやかなあきらめに似た希望を得る物語を上手くつくることが出来たと思います。現実には完全に絶望しかないとは捨てきりたくはないが、かといって未来は希望にあふれているなどというたわごとはそれ以上にやりたくないという要望を上手くかなえることが出来たでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　スカイクロラはベタに絶望的な閉塞感と弛緩した息の詰まる日常を描きましたが、ポニョは鮮やかな色に彩られた絶妙な質感のある楽園を描きました。しかしポニョは不気味な映画で、実のところスカイクロラと同じくポニョの根底にあるのも「現実はつまらねぇ」というのは間違いないのですが、ポニョは厭世観を裏返しにしたユートピアの映画でした。しかしそのユートピアが美しければ美しすぎるほど、それが強烈な現実逃避の証であるわけです。私は映画を見ている間ずっと「あぁ宗介かわいいよ宗介。やっぱ二次元はいいよなぁ、それに比べて三次元ときたら・・・」と思っていました。&lt;br /&gt;　宮崎駿はナウシカ以降中途半端な映画を何本か作っていました。庵野秀明が言っていたように、映画がクリエイターが自分をむき出しにしてぶつかっていくストリップだとしたら、「魔女の宅急便」「紅の豚」「耳をすませば」は肝心なところでパンツを脱がなかったへたれの所産です。現実は地獄であるのは当人が十分承知のくせに、自身の卓越した表現力により描き出した妄想を現実に混ぜ込んでオナニーをしているようにおもいます。ところが「もののけ姫」で監督は自身の抱えていた政治的な苦悩に全力でぶつかりました。文明と自然、繁栄と平和の矛盾という、どう考えても答えが出るわけのない難問に本気で苦悩し、当然答えが出ないまま公開しました。プロットとしては最低ですが、本気でぶつかった姿勢は最大限評価します。&lt;br /&gt;　「もののけ姫」で真っ白に燃え尽きたのでしょう、そのあとの「千と千尋の神隠し」はいわば遺言だと思います。宮崎駿はもう彼岸の人で、完全に俗世間のことから超越してしまっているのです。ポニョはもののけ姫以前の作品群を連想させますが、ポニョが一線を画しているのは「現実はすばらしい」という虚勢を張るのではなく、この世の夢を描いたということです。&lt;br /&gt;　ただ私にはそんな映画が大ヒットする理由はぜんぜん理解できません。本来こんな映画は、現実に無駄な期待をする恐れがあるので、スカトロに匹敵するほど子供に見せてはいけない映画です。子供を元気にするためにこの映画を作ったのでしょうが、これから先の日本には絶望しかありません、絶望とこの理不尽な状況を通過儀礼として知っている人間だけがこの映画を見る権利があると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　宮崎は微妙ですが、押井がやろうとしたのは若者に対する「人生そんなに悪いもんじゃないぜ」という説教です。説教とは役に立たないものです。というのも人の人生に積極的にかかわろうというのならば、相応の責任を伴うもので、良かれと思おうが思うまいが殺されるくらいの覚悟が必要なのです。説教は相手との関係性を棚上げにして、自分は安全なところにいるくせに人の人生に干渉して「自分は相手のためにしてやった」という満足を得ようという、無責任極まりない本来万死に値する行為です。幸いにして聞く側も「こいつは肝心な時に何もしてくれないくせにえらそうなこといいやがって」と軽く聞き流すので効果はありませんが。&lt;br /&gt;　2作品は説教で上記の理由から効果はまったくありませんし、宮崎駿の場合は「生きていることには価値がある」という嘘っぱちをのたまう、邪極まりない偽善な目的を設定した作品ですが、ともに映画としては非常にすばらしいとおもいますす。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　先の金融危機を発端に世界の勢力地図が大きく変わると私はにらんでいますが、政治家が目をそむけ続けた外交的問題、経済的問題、社会的問題を解決しない限りは日本は１０年と持たないでしょう。少なくとも今年の終わりごろから確実に景気は悪化して、ただでさえリセッション入りしていたのがさらに悪くなり、今は時代の転換点であると同時に暗黒の時代への突入前夜であります。&lt;br /&gt;　はっきりいって&lt;span style=&quot;color: #cc0033;&quot;&gt;かなりやばい&lt;/span&gt;ですが、逆にこの絶望をになったどんなアニメが出てくるのか非常に楽しみにしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>
<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>
<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-10-24T22:09:56+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_526d.html">
<title>秋葉原通り魔事件</title>
<link>http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_526d.html</link>
<description>　やっと院試が終わりました。まぁ何とかなるでしょう。あとは資格の試験勉強をしなけ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　やっと院試が終わりました。まぁ何とかなるでしょう。あとは資格の試験勉強をしなければいけないのに、ハイデガーの『芸術の根源』なんて本を読み始めたり、エロ漫画を買いあさったりでぜんぜん勉強に実が入らない・・・&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あと児童ポルノ法改正の反対の有志になりました。大学でビラを貼ってくれとの依頼があったので気が向いたらやってみます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いまさらですが秋葉原の通り魔事件について話します。なぜ今かというと、みんな忘れたころだろうから、あえて旬をはずしてみます。この手の事件は流行に乗って語るとどうしようもない文章になるからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　秋葉原で起きた通り魔事件ですが、この事件の加藤容疑者が携帯電話で書き込んでいた文章を読んだときに、よくある凶悪事件とは違う非常にクリアーな犯人の動機が理解できたような気がします。この事件は今の日本の閉塞的な状況があると思います（私の勝手な妄想ではありますが）。なのでいつものように私の勝手な見立てでではありますが、この事件を今の日本の状況に当てはめてみようと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今の日本の根本的な問題は「規範」にあるというのが私の持論です。国家が人々を社会の監獄の中に閉じ込めているのに、恐らく理由など無いのでしょう。仮に理由があったとしても日本国憲法にあるような国民を幸福にするためのモノではないでしょう。そして国という牧場を経営するためには家畜たちにもやもやとした幸せな未来や、安心感や承認を与えさせる必要があるわけです。これが「規範」としての希望です。&lt;br /&gt;　こんな「希望」は何の保証もない無責任なホラなのですが、社会が発展途上で不完全な物という共通の前提があれば機能してくれます。焼け野原から立ち上がっていくという共通前提のあった戦後の日本がそうでした。希望のミソは、未来が不透明であることと、希望の求めるところ自体がなんなのかよくわからないけど素晴らしいらしいものであるという点です。人間は所詮たんぱく質の塊ですから、その一生なんてたかが知れてます、どのみち惨めに朽ちて死ぬしかないので、希望を持たせるには具体的な未来のことなんて考えさせない方がいいわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし今の日本はかつてとは違い未来は非常にクリアーであり、それはどう考えてもお世辞にも素晴らしいものとはいえませんし、個人の将来のレベルでも「勝ち組」「負け組」というクリアーで即物的な幸福感しかありません。この期に及んで「明日はきっといいことあるよ」とか抜かす奴はぶっ殺した方がよいでしょう。&lt;br /&gt;　まぁウソも方便というようにその「希望」というホラを信じてそこそこ楽しくやっていければそれで人間幸せなのでしょうし、きっと幸せなんてその程度の物です。しかしいまの社会の刷り込む規範は信じて「そこそこ楽しく」やっていけない規範です、はなっからうそだとバレバレなホラです。これは今の深刻な政治不信、しいては社会不振とニヒリズムを考えればわかるでしょう。&lt;br /&gt;　小泉元首相は「痛みに耐えて」と熱弁をふるいました、痛みに耐えて希望の未来へと続くのでしょうが、結局うまい汁をすすったのは外資系ファンドの連中と経団連のクソどもです。今も安倍元首相の「鬱くしい国」路線は続行中です。&lt;br /&gt;　加藤容疑者に関していえば、経済的な面では客観的にも彼には「希望」はありませんでした。昇進昇給の当てが一切無い飼い殺しの労働環境、完全に人間性を破壊し「希望」もクソもあったモンじゃありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　またかれは非モテでした、これが非常に重要な点です。人間はここではないどこかである彼岸を夢見る生き物です、特に男にとってはそれが女です。&lt;br /&gt;　三島由紀夫が『不道徳教育講座』で「童貞を一刻も早く捨てるべし」と述べたのは童貞にとって女はとてもすばらしい、きらきら輝いたものでそれを手に入れれば（すなわちセックスすれば）絶頂に到達でき、自分の不完全なものが補完されるという下品な妄想を抱いているから、こんなロマンに満ちた「希望」をすてて「何だこんなものか」という現実に返す必要があるからです。男は希望は捨てて「夢」を見るようになるのです。&lt;br /&gt;　昔は男は誰もがなんだかんだ言って女と一緒になれた（人間関係の仕組みがそれをセッティングするようにできていました）のですが、現在は&lt;span style=&quot;color: #cc0033;&quot;&gt;童貞はほうっておけばずっと童貞です&lt;/span&gt;。マスコミはほとんど報道しませんが、実は非モテといわれる人々が増加していることは重大かつ深刻な社会問題です。彼らが増えると、結婚率が減り少子化が進み、社会的なリソースに恵まれない一生を独身ですごす人々が増え、そして何より「俺には彼女がいない」というルサンチマンを抱えた男が増加することになります。&lt;br /&gt;　また非モテはどうしても一生を孤独にすごさざるを得ません。常に他人におびえそのくせ他人をさびしがる人々（人間とはこういうものです）がなんらコミュニティから囲まれないという今の日本の現状は本気でどうにかしたほうがよいと思います。&lt;br /&gt;　東浩紀がこの事件をテロ（本当は勝谷が私の知る限り一番早くこの事件をテロと位置づけていますが、彼がこの事件の本質をどの程度理解しているのかはわかりません）としていますが、私はテロという言葉を恐怖によるコントロールとして使いたいので、私の言葉で言うとこの事件はルサンチマンからくる社会への復讐であり、わかりやすくいうと&lt;span style=&quot;color: #cc0033;&quot;&gt;駄々&lt;/span&gt;です。&lt;br /&gt;　疎外感を持っている人間はメディアで取り上げらないですがかなり多くいるでしょう（具体的にはわかりません）、派遣労働法は変えるべきですが、希望の喪失と非モテという問題を解決しなければその法律を変えた程度ではこのような事件はおき続けると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また２chの掲示板等では加藤容疑者に共感する声が多く、またそれと同じくらいにこの事件を非難する声があります。私としては加藤容疑者が死刑になろうがなるまいが正直どうでもいいです。また声高々に「許せない」と叫ぶ気もありません。犯人よりもこんなテロが起きなければ非正規雇用が増加することを危機として認識できないマスコミや政治家どもに対して怒りと失望を向けてしまいます。また私はとっくの昔から司法の正義なんてものは信じてませんし、知りもしない人間が容疑者も含めて高々数人死んだ程度ではなんとも思いません。加藤容疑者に怒りがあるとすれば事件を日本の文化の最後の砦の秋葉原で起こしたことくらいです。もし霞ヶ関や六本木ヒルズやネズミの国やヴィーナスポートで起こしていれば拍手していたでしょう。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　こういう駄々を肯定するかといえば、日本という社会を守る立場から言えば当然否定しますが、正直こんな国や馬鹿な国民は守る価値があるのか私には疑問ですので簡単には否定できません。はっきりいえるのは責める気にはなれないということです。私の中にも彼が抱いたような絶望やルサンチマンは紛れも無く存在しますし、こういった状況の中で「生きる」というゲームは社会が認めるルールの中では絶対に勝てることのできない糞ゲーです。勝てないゲームをしなければならないのが道理ならば無理を通すことを否定はできないでしょう。社会的な道徳や幸福観という勝てないルールで戦ってはだめなので、暴力というルールを通すのもアリです。&lt;br /&gt;　まぁ国内最強の暴力機関である警察には勝てないのでそれも勝てないルールですが、このまま日本の現状を放置しておけば警察どころかこの国は確実につぶれます。&lt;br /&gt;　ガンダムのキャラクターデザインで有名な安彦良和氏はアニメージュで、今はひどい時代だけれど、これからよい方向へ向かうだろうし、若者の絶望はわからないでもないが、人として許されないことだけはしないでくれと述べていました。学生運動をしていた安彦氏だから思うところがいろいろとあるのでしょうが、人として扱われない阻害された人間に、人としての道徳を要求するのは虫が良すぎるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-08-06T04:54:50+09:00</dc:date>
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<title>最近のアニメ</title>
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<description>　最近あまり勉強がはかどらずに困ってます。院試まで一ヶ月強、資格試験まで半年・・...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　最近あまり勉強がはかどらずに困ってます。院試まで一ヶ月強、資格試験まで半年・・・前者は何とかなるだろうけど、後者はびみょう。まぁ何とかなるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最近のアニメのの暫定的な評価をしてみようと思います。最近はこれっ！て言う華と面白さを兼ね備えたアニメはなかなかないですが、かといってまったくダメというわけではない、むしろ平均で言えば質は上がっていると思います。出来がよいと同時に、エンターテイメントとしても飛びぬけていて、作家性やエゴの強いアニメはない分、それなりによくできている、まぁまぁ面白いアニメが多くなったと思います。アニメの産業構造に変化が現れているからだと思います。「これで世界を変えてやるっ！」ていう博打のようなアニメで一発当てに行こうという山師的なムードから、一定のコストに対し一定の手堅いリターンを得ようという投資家的なムードに変化しているのでしょうか。&lt;br /&gt;　完全に凋落してしまった日本映画とハリウッドの二の舞にならないかどうかが不安です。完全なビジネスマンが経営し、現在火の車のGONZO、道楽でアニメをつくる体育会系山師集団（ほめ言葉ですよ、怒らないでくださいね）BONSE、一定の良作、傑作をつくるIG、いい意味でも悪い意味でも昔ながらなSUNRISEなど、それぞれ特徴のあるアニメ制作会社の動向が気になります。ただ短期的には胸娘、かのこん、とらぶる（どれもXEBEC)のようなアングラでのエログロ路線が加熱すると思います。&lt;br /&gt;　最近のアニメで面白いのは湯浅氏の手掛けるカイバとむっちむちのRDでしょう。地味に面白いのはドルアーガの塔、PERSONA、二十面相の娘、いたずらなKiss、マクロスFだと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-06-22T20:04:42+09:00</dc:date>
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<title>携帯電話</title>
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<description>　アメトークのエヴァ芸人の回を見ました、やっぱオリエンタルラジオはうざいですね。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　アメトークのエヴァ芸人の回を見ました、やっぱオリエンタルラジオは&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;うざい&lt;/span&gt;ですね。なにも語る言葉を持ちません。エヴァについていつか語りたいものです。ちなみに私が好きなのは&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;リッちゃん&lt;/span&gt;です、あのj濃厚なギトギトした感じがたまりません。「伊吹マヤが一番！」そんな風に思っていたころが俺にもありました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今回は携帯電話について語ります。凶華様の特殊能力のことではありません。&lt;br /&gt;「ガイアの夜明け」という番組で子供から有害なネットのコンテンツから守れという趣旨の番組が放送されました。小中学生が学校の裏サイトやプロフを使って誹謗中傷を行い、自殺に追い込まれるという事件が多発していること、ネット上の出会いや交流から犯罪を起こす物が出るという事件が多発しているというのです。&lt;br /&gt;　私個人の考えでは&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;小中学生に携帯電話をもたせるのはダメ&lt;/span&gt;だと思います。少なくともソフトバンクの子供に携帯電話をもたせようとするCMのような風潮（規範）はダメです。&lt;br /&gt;　最近は政治家たちの間でも携帯電話を子供に持たせるなという議論があるそうですが、彼らの考えと私の持論とは大きな違いがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここ10年くらいでパソコン、インターネットが飛躍的に発展、さらに電話とは名ばかりの情報端末である携帯電話が登場、異例のスピードで普及したのは周知の通りです。SFっぽくいうと電脳化がすすんだのです。電脳化された社会を描いたアニメで有名なのは攻殻機動隊ですが、より実際に近いのはserial experiments lainでしょう。lainがすごいのは電脳化が進めば起こるであろう、他者が偏在化するという事態に軽く触れたことです。&lt;br /&gt;　人間とは非常に非合理的な生き物で、寂しがりやなくせに、他人を恐れ、嫌わずにはいられないという困ったところがあるのです。（これを臆面もなくさらけ出したのがエヴァです）即自的な意識が対自的な物へ代わる原因は紛れもなく他者の存在です。それまで何の障壁もなく透明だった（と思っていた）はずの他人が、実はまったくもって自分のことをわかってくれない、それどころか自分のことを常に操作しようと常に腹のそこを伺っているということを知るのです。こうして他者が誕生してしまうのですが、他者と自分との境界は実に微妙です。特に日本人は他人の見ている自分の姿を自分のありようで自分のありようを決めようとする性質があります。したがって生身を通したコミュニケーションのように他者が他者としての仮面をつけていてくれないと、実はかなり自分と他者との境界はあいまいになります。　lainの世界のように電脳世界（wired）で人間がつながっていると自我の境界が極めてあいまいになるわけです。玲音はどこにでもいてどこにもいないということです。インターネットの普及とは比べ物にならないくらいに携帯電話はダイレクトに、他者との境界をぼやかしてしまいます。というのもつねに持ち運べて簡単にアクセスできるのにたいし、PCはわざわざ立ち上げなければならない分つながっているときとそうでないときの区別がしやすいわけです（もちろん一日中家に引きこもってPCの前にいるような場合は別ですが）。&lt;br /&gt;　また先に述べたように人は他人と傷つけあわずにはいられないくせに、非常に寂しがりやな生き物で、だから人間関係なんてものはめんどくさいしもめるものです。このめんどくさい物を、めんどくさい物として対処する術を身につけるには通過儀礼として「他者」を知る必要があると思うのです。しかし携帯電話のように常に他人が密着していると、個人は完全に他人から逃げることができないでしょうし,また「他者」としての顔をしていないので「他者」を知ることができず、傷つけあい依存しあうという悪循環に陥るでしょう。&lt;br /&gt;　私は「他者」を知らずに育つことが当人とその周囲の環境に与える影響はあまり望ましくない物であるように思います。ミサトさんもいうように「大人になるってことはお互いに傷つけあわないような距離をとれるようになること」です。そういう意味で子供に携帯電話を持たせるのは止めた方がいいでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ携帯電話はとんでもなく便利な道具です。いつかは携帯電話を持たざるを得ないでしょう、恐らく本人が望まなくても&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;半強制的に携帯電話を持たされる&lt;/span&gt;時代が来るでしょう。ですから私は「子供に」携帯電話を持たせ無いようにする必要があると思うわけです。子供時代に「他者」の洗礼を受ければよいわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　インターネットと携帯電話が人間関係の位相（遠いとか近いとかの関係）をガラリとかえ、これから予想もできないような形へと変貌させていくかもしれません。産業的な理由等から恐らくそれは不可避です。たった一日しか顔を合わせていない人間が強盗や強姦をやるのは別に何の不思議なことは無く、必然といえます。&lt;br /&gt;　自民党の高市早苗という&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;どうしようもないクソ女&lt;/span&gt;がいますが、このゴミが筆頭になってウェブコンテンツを規制しようとしています。はっきりいって、ネットの登場による時代（そして人間）の変化は法律を作ったからといって止められるような物ではありません（仮に方法があるとしたらネット自体を禁止するしかないでしょう）。エログロを隠すことは「青少年の健全な育成」にはつながりませんし、出会い系サイトが問題なのではなく、出会い系サイトで出会いを求める人間の「寂しさ」と彼らが「世間知らず」であることが問題です。硫化水素自殺の問題は自殺方法が容易に手に入ることでは無く、日本人のバイタリティーが低下してることです。&lt;br /&gt;　政治家がやりたいのは問題の根本的解決では無く、国民の生活領域の管理と、自分たちが国のために働いているんだというアピールです。奴らの施策は上っ面だけで、「他者」の偏在化という深い重大な問題を解決できないだけでは無く、ネットの可能性の芽を根絶やしにしてしまうでしょう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-06-07T00:30:10+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_0d2a.html">
<title>ソイレントグリーンとマトリックス</title>
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<description>　今期のアニメは微妙ですね。あえて特筆するとしたらRDでしょう。serial e...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今期のアニメは微妙ですね。あえて特筆するとしたらRDでしょう。serial experiment lainと諸星大二郎を無理やり合体させたような地味なアニメだったghost hound（太郎の可愛さは異常でした）に続いて、プロダクションIGと士郎正宗が手を組んだアニメなんですが、ghost houndよりもさらに地味でわかりにくいアニメです。&lt;br /&gt;　まず主人公が80近い老人で、その老人が海に見立てた電脳世界にもぐるのが話の軸という、非常に地味な絵柄。さらにすごいのが出てくる女の子の足の&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;太いこと太いこと&lt;/span&gt;ｗｗ弘兼憲史とさいとうたかをのマンガにでてくる女より肉付きがいいです。トドメに番組が終わった後にヒロインの声優が&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;実物&lt;/span&gt;で出演するサービス付です。プロダクションIGさん&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;勝負に出すぎです&lt;/span&gt;（笑）。&lt;br /&gt;　客に媚びないBONESでさえ、ストレンヂアとDARKER THAN BLACKで散財したあとにソウルイーターで一山当てようとしているのに、まだ勝負を続けようとするIGさんの心意気はまさに漢です。まぁBONESも負けずに「２０面相の娘」なんてリスキーなアニメを作ってますし、IGもホリックという確実に一定の利益の見込めるアニメを発表してますが。&lt;br /&gt;　まぁ今のままだとよくわからない変なアニメのままですが、今期化けるとしたらこのアニメでしょう。とりあえず今の私はマクロスのクランと、ひだまりラジオ、ムネモシュネの麻美子とくぎゅの濡れ場で食いつないでいきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さて今回はタイトルにあるようにソイレントグリーンとマトリックスという映画に関わる話をしようとおもいます。&lt;br /&gt;　ですがソイレントグリーンやマトリックスはストーリーについて別に熱く語るような要素は特にありません、所詮は叩いても生きることを無条件に称えるありがちな道徳規範しかでてこないからです。（&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;白状するとソイレントグリーンは話の筋しか知りません&lt;/span&gt;）私がこの作品から何をいいたいかというと、ディストピアとして描かれた両者の世界が今の日本そしてこれからの日本に比べれば、はるかにユートピアだということです。&lt;/p&gt;



&lt;p&gt;　マトリックスは古い映画ではないので記憶に新しいですから知っている人も多いでしょう。機械が世界を圧倒的力で支配し、人間を電脳世界（マトリックス）に閉じ込め、人間は機械の見せる夢の世界でそうとは知らずに飼われているというのがマトリックスの世界です。&lt;br /&gt;　人間は「世界はこうである」という認識、いわゆるリアリティなんて物のなかでしか生きていけないのですから、面白ければそれでいいという私の考えからすれば、まぁ&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;知らずに楽しんで生きていけるならそれでいいじゃねぇか&lt;/span&gt;というわけです。最後まで知らずにいられるならば知らぬが仏というわけです。&lt;br /&gt;　作中のハゲは私と違って、この映画の世界を地獄だと思ってますが、この違いはなんといっても肉体に関する一種の崇拝です。つまり肉体自体に「生（性）の悦び」という言葉に代表されるように何かしら超越的な価値をどっしりと置いているということです。これは単なるフェティズム以上の物から由来していると思います。&lt;br /&gt;　私は特に深い論理づけや決定的な根拠があるわけではないですが、人間には自分のからくりを知ることや、自分自身や人間自身を操作可能なものにしてしまうことに嫌悪感や恐怖感があると思っています。一応映画の中から例を引っ張ってくると、機械たちが死んだ人間を「モノ」として、養殖している他の人間のエサにすることに、登場人物の一人が恐怖しているシーンがあります。一般的な例では売春や中絶、臓器移植、クローン技術に対する一種の忌避意識があります。これらは文化、宗教、個人の価値観によって大きな差がありますが、人間を操作可能な「モノ」として捉えることへの恐怖はかなり普遍的なものだと思います。そしてさらにその恐怖からかどうかはわかりませんが、「生きること」やナマモノの異性とのセックス（しかも心が通ったというオブラートで包んで）さらには肉体を無条件に美しく素晴らしい物だとする規範が広くキリスト教圏を中心に広く普及しています。この規範は無条件に生きることを肯定してくれるのでかなり感染力のある規範です、さらにこの規範を持った人間はこれを否定するような物や人を徹底的に攻撃し、場合によっては殺してしまいます。「生きることは素晴らしい」という規範が人を殺すのですから変な話です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ソイレントグリーンは貧富の格差が拡大した社会を舞台にした映画です。貧しい人々には死ぬ自由だけは保障されていて、公共の自殺するための施設で安楽死をすることができるのです。そしてそこで死んだ人々は極秘にある会社に運ばれ、食肉として加工され、市場に出回っているというのがこの映画のオチなのです。&lt;br /&gt;　つまり社会というのが貧困層と富裕層という構図自体を内包した&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;巨大な牧場&lt;/span&gt;となり、、貧困層を絶望の淵に追いやり、自らの選択で死なせ、それを食料として富裕層に回しているのです。ここで重要なのが貧困層を無理やり殺すのではないことです、結果としてはそうなるのですがいくつもの段階を経ることで単純な悪役がいなくなるということです。&lt;br /&gt;　これは実は今の日本に非常に近い構図をしています、そしてその社会の仕組みはより狡猾になっています。違うのは貧困層は食料としてではなく労働力として機能しているということです、だから死ぬ自由すらない。ブラジルとか日本より貧富の格差が大きい国もありますが、貧困層は貧困層で共同体を作り社会の中でまとまっていて、そして労働力は搾取されていません。ほかの格差が大きい国でも同じです。日本は貧困層を細分化し、部品として完全に組み込んで回っています。&lt;br /&gt;　落ちこぼれが出るのが必然なのではなく、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;落ちこぼれが出てくれないと回らない社会&lt;/span&gt;というわけです。&lt;br /&gt;　牧場で生まれたばかりの牛が「俺もう生きてんの嫌になったわ、どうせ生きてても殺されるだけだし」といって自殺しようとしたら、牧場主は全力で止めるでしょう。ヘンゼルとグレーテルのようにパンパンに太らせてから殺さなければいけないからです。もし自殺しようという人がいるならば、周りの人は全力でとめるでしょう。その人たちは「お前から労働力を搾取するんだから死ぬな」とはいいません、その人たちが止めるのわけは、自分の命が価値のあるものだと思いたいからで、つまるところオナニーです。彼らも所詮は社会の部品に過ぎないということです。&lt;br /&gt;　人の命は誰の物かというと、少なくともその人のものではありません。命は個人のものだとか尊いとかほざくバカどもが、人の命を規範でがんじがらめにし、貶めているのはなんとも皮肉なはなしです。&lt;br /&gt;　バイオ技術の躍進とかオブラートで包んだ言葉でごまかしてますが、金で命が買える時代が確実に近づいています。そして命や「生きる幸せ」を買える人間と
買えない人間という現実（この現実自体は今までも存在しました）がよりはっきりした形で顕在化するでしょう。もうそうなってしまってはマトリックスのとこ
ろで述べたような「命の尊さ」という規範がなりたたなくなるでしょうし、その段階で「生きる」ことを無条件に肯定し、押し付けるのは偽善というよりも、他
人の手でマスを掻くようなものです。&lt;br /&gt;　孤独に&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;ロロ雑巾&lt;/span&gt;のごとく使われ、すりつぶされていく人間に「生きることの素晴らしさ」なんてのたまえる人間は、オナニーぐらい一人でできるようになるべきです。「硫化水素の発生方法」を有害情報として規制しているように、今の日本には死ぬ自由すらないのです。安らかに人生にピリオドを打てるソイレントグリーンの世界がいかにマシでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今の日本がうまく回るシステムかというとそんなわけがありません。このまま所得格差を放っておくと、少子化と不況で確実に&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;国が転びます&lt;/span&gt;（アフリカ等の貧困と今の日本の貧困は別の次元の問題で、貧困層の再生産がおこなわれません）。今の議員たちにはその危機感がまったく感じられません。&lt;br /&gt;　このまま国が沈み金持ちがねずみのように逃げ出すか、あわててより狡猾なシステムを作るかわかりませんが、どちらにせよろくな未来が待っていないのは確かでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-05-06T22:55:50+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_2bf0.html">
<title>松文館裁判　</title>
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<description>　最近いろいろなことがありました。今週から学校が始まるのでゼミの準備で本を読み始...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　最近いろいろなことがありました。今週から学校が始まるのでゼミの準備で本を読み始めたり、アニメの入れ替えが始まったり、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;かのこんとTOLOVEるが始まって日本が終わったり&lt;/span&gt;、若松孝二の映画を観たりとホントいろいろです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　更新が遅れましたが、前回の続きとポルノの規制について今回話をします。前回もところどころ私の押し付けがましい主張がありましたが、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;今回はそれしかありません&lt;/span&gt;。&lt;/p&gt;







&lt;p&gt;　二次元のポルノの前に三次元のポルノの規制について軽く話そうと思います。&lt;br /&gt;　アダルトビデオやエロ本は戦後延々と規制され続けてますが、警察とかの司法機関が取り締まる訳ではないです。実際は映倫やビデ倫といった機関が検閲をしています。（マンガ等の出版物は出版社の自主規制が主です）。凄まじい量のエログロコンテンツが生産されている中で一定の普遍性を持ったアウトゾーンを決めるのに、前回前々回で述べたような私の言うわいせつと法的な猥褻によって対処するのは不可能です。したがって具体的なコードによってビデ倫の規制や自主規制をしています。&lt;br /&gt;　つまり槍玉に挙げられるような場合を除いて、現実の規制には「どれだけ過激だ」とか「反社会的である」とかいう基準は用いられず、機械的に認識するコードを用いています。早い話がマンコとチンコ（かつてはアナルも）を映さなければ（描かなければ）いいというわかりやすい規制をしています。&lt;br /&gt;　当然ですが猥褻か否かがこんな風に機械的なコードで認識できるわけがありませんが、日本は長い間コードによる規制で満足していたのです。だからどうしたと思うかもしれませんが、実は世界的には&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;特異&lt;/span&gt;なのです。欧米ではポルノは無修正が基本ですが、槍玉に挙げるときは存在を完全に抹殺する勢いです。『ネクロマンティック』というネクロフィリア（死体との性愛）を描いたドイツの映画があったのですが、裁判所はこの映画にフィルム焼却処分を命じました。私は2年ほど前、フィルム焼却処分になったはずのこの映画をTSUTAYAでレンタルしてモザイクつきでみることができました。『愛のコリーダ』が日本ではモザイク付きでしか見れないことと対照的な例だと思います。&lt;br /&gt;　つまり日本はモザイクさえかければ死体と姦ろうが、ウンコを食べようが問題ない国&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;でした&lt;/span&gt;。&lt;br /&gt;　ところがここ数年で状況に変化が起こりました、変化の一つはご存知のようにインターネットの登場です。海外の無修正動画が簡単に見れるようになりましたし、裏ビデオの通販も簡単にできるようになりました。「赤信号みんなでわたれば怖くない」という格言のように既成事実として無修正動画が氾濫し、もはや局部を神経質に隠す意味が現実的にはなくなりました。もう一つの変化として政治家や馬鹿なババァ共が、見たら嫌な思いをするとわかっているアングラな世界を&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;わざわざ見て&lt;/span&gt;、キーキー騒ぐようになったことです。&lt;br /&gt;　もともとポルノで局部を隠すことに意味があるとは思えません。大半の人間は一生童貞、処女でもない限りいつかは見ることになるわけだからです。しかし私は映倫は大嫌いですが、ビデ倫はほめてもいいと思います。ポルノを見ているときはモザイクはうっとうしいことこの上ないですが、隠されるからこそ余計に妄想を熱く膨らませることができるのです。私は無修正のポルノを見たときに非常にがっかりしたのを覚えています。モザイクのおかげで日本人は世界最高峰のスケベな民族足りえたと思います。&lt;br /&gt;　現在の無修正だらけの状況が、どういう結果へとつながるのかはわかりませんが、少なくとも無修正を取り締まる法律はザル法であるということはいえると思います。&lt;br /&gt;　以上が私の知る限りの実写もののポルノの規制についてです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　タイトルにあるように以降二次元のポルノの規制について語ります。&lt;br /&gt;　エロ漫画の規制は基本的にPTAのバカなババァ共が槍玉にあげて有害図書として攻撃するというのが典型です。しかしエロほど普遍的なものはこの世には存在しないので、エロ漫画は影の世界で非常に濃ゆい営みを続けていました。マンガに関しては倫理規制をする人たちがいないので基本的に自主規制なのですが、アダルトビデオに比べてかなりゆるいです（出版社によって差はありますが）。例えて言うならお茶漬け海苔が申し訳程度に貼られているといた感じです。&lt;br /&gt;　前回紹介したように松文館という出版社のエロ漫画が摘発されました。この裁判の弁護側の主張の重要な点を述べる前に、エロを規制する理由について語ろうと思います。&lt;br /&gt;　エロやグロで嫌な気分になる人がいるというのと、真似する奴がいるというのが規制をする口実です。しかし私が思うに自分のもつ規範とたがえるものがフィクションとして存在することが許せないというヒステリックな要因が強いと思います。&lt;br /&gt;　現実と虚構とは何かというと、何だって認識をしている以上は虚構であり、現実は虚構より先にあるとされているものです。人は現実を規範によって組み立てるのですが、即自的とでも言うのかその現実のなかに自分を溶け込ませています。つまり自分の持つ規範から逸脱した物に対峙したとき、自分が侵食されることへの拒絶反応を示し、受け入れたり排除しようとします。&lt;br /&gt;　わかりやすい例がハンセン病患者の隔離でしょう。大抵の人間は「人は美しいものである」という現実の中で生きています。ところが顔が醜く変形したハンセン病の患者を目にすると、「醜い人間」が「美しい人間」を侵食し、必死に「醜い人間」を現実から排除しようとします。おもしろいのは個人レベルの行動でその拒絶反応が起こるのではなく国家レベルでそれをやるという点です。&lt;br /&gt;　人間の羞恥心は、変な話ですが人間の最も根本的なエロスを汚い物として排除しようとするのです。キリスト教社会がアブノーマルな性を持つ人間を徹底的に抹殺していたことを思い起こしてください。&lt;br /&gt;　裁判の話に戻しますが、精神科医の齋藤環氏はいわゆるオタクは3次元の現実と2次元の現実をパラレルに扱う人たちであり（これが彼のオタクの定義です）、2次元での性欲を3次元での性欲に発展させるのはまれであり、エロ漫画を読んで実際にことを起こすことはまれだと主張しました。さらに社会学者の宮台真司氏は、ゾーニング（すみわけ）がなされていれば「見たくない物を見ない」権利は守られるし、暴力的なフィクションに慣れ親しんだ人が暴力的な行動に走りやすいという強化効果説は一時的には成り立つが、長期的にその人を暴力的な人間にするというのは統計的には証明できていないこと、そしてむしろ犯罪を抑止する効果すらあるということを踏まえ、アダルトコンテンツが必ずしも性犯罪の増加にはつながらず抑止する可能性もありえることを述べました。&lt;br /&gt;　判決文は（ネットで見ることができます）齋藤氏、宮台氏の証言を理解していたとはとても思えないような物で、チャタレイ裁判とサド裁判ときて時代が経るにつれて裁判官の質が劣化していってるのがよくわかります。「こんなものけしからん！！」というチャタレイ裁判とサド裁判のほうがまだ筋が通っていました。判事は一応日本でトップクラスの難易度を誇る試験を潜り抜けた人のはずなのに、結局は上に挙げた様なヒステリックな理由でしか判断を下せないバカになっているのです。いかに日本の司法が末期的な状況に陥っているかをうかがわせます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　個人的にはポルノによって犯罪に走る人間が存在するのは本当だと思います。しかしポルノによって犯罪に走らずにすむ人間の方が圧倒的に多いでしょう。人間には汚い面がいろいろとあるのですから、それを排除するよりもうまく付き合うようにするのが重要です。&lt;br /&gt;　有害なメディアによる青少年の健全な育成の阻害というのは取ってつけたような言い訳です。それより危険なのは、裸や死体を見て嫌な気分になるだけではなく、ビビッてしまうような軟弱さのまま大人になってしまうことです。私みたいに一生処女童貞のまま終わることを前提にしているのなら別ですが、社会が成り立つためには大部分の人間が他人の裸を拝む必要がありますし、現実に世界では戦争があり、日本の経済的繁栄はなんだかんだいってその戦争に支えられているということを知らずにいていいわけがありません。&lt;br /&gt;　見たくない物を見ない権利を勝ち取るためには、自分がどういうものを見たくないのかを知る義務あり、そのためには見たくない物を見ないとダメです。&lt;br /&gt;　児童ポルノ法を強化しようとするババァどもは、自分が子供を虐待から守りたいのか、子供が性の対象としてみることが許せないのかの区別をするべきでしょう。後者は明らかに憲法の思想信条の自由に反していますし、憲法以前に&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;他人の性癖にとやかく注文をつけるのは止めましょう&lt;/span&gt;。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　追記として野田聖子や公明党の議員のようなバカが「アニメ産業を国際的に展開させていくために、過激な性描写を取り締まるべきだ」という旨の発言をしますが、それについてコメントをして今回の更新を終えます。&lt;br /&gt;　日本の文化の優位性は、『ネクロマンティック』やセリーヌの政治的パンフレットが存在することができるという無法さに支えられているといってよいでしょう。アニメの発展にくりぃむレモンのロリや川尻善昭のエログロがいかにアニメの発展に貢献したかを知ってからものをいいましょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>
<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-04-13T16:52:44+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_eac5.html">
<title>いやぁ～、エロ漫画ってホントにいいものですねぇ</title>
<link>http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_eac5.html</link>
<description>　ガンダム００がすごいことになってますねぇ。三木さんと藤原さんのテンションの高さ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　ガンダム００がすごいことになってますねぇ。三木さんと藤原さんのテンションの高さに驚きました。キャラ大虐殺は富野ガンダム（ターンＡは除く）の定番ですが、禿は基本的に死亡フラグとかはたてない無いので、フラグびんびんの００は、時代の変化を感じさせます。&lt;br /&gt;　コーラは死んじゃったのか、くぎゅぅとちわわに見せ場はあるのか等、気になる点が多いですが2期を待つしかなさそうです。まぁ「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;お前のケツの穴を狙い撃ちたい&lt;/span&gt;」というネタが使えなくなることだけは確かだと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まったく関係ない話ですが、前回の更新で「ロザリオとバンパイア　エロ」の検索ワードに引っかかった人が結構いたみたいです。全然そんなつもりは無かったのですが、だますような結果になってしまって申し訳ないと思います。皆さん夏まで待ちましょう。&lt;br /&gt;　ところで前回は澁澤龍彦の「悪徳の栄え」についてふれました。そのあとでたまたま伊集院光さんのラジオを聴きました、伊集院さんはアダルトビデオについてどこからどこまでがＯＫなのかということを話題にしていました。伊集院さんは非常にすっきりした正論を述べていましたが、日本における「わいせつ」の歴史、性表現の規制の歴史を知らないんだろうなという感じがしました。恐らく私が性表現の検閲の歴史については常識だと思っているようなことが、一般的にはあまり知られていないようです。ということで今回は性表現の規制の歴史を解説します。次回はその続きと私の意見を述べようと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私はエロ漫画が大好きです。抜くか抜かないかという、単純なポルノとしての枠の中で、どれだけポルノにとどまらず漫画としての技量、個性を出すかという奥の深さ、そしてそれに自分がどう向き合い、楽しむかという面白さがたまりません。ただ1冊あたりの値段が高いので古本屋を利用することが多くなります（自分のニーズに照らすと玉石混合だというのもあります）。&lt;br /&gt;　古本屋で物色をしていたところ、定価の3倍以上の値段で売られている漫画がありました。ほかの漫画が定価以下の値段で売られているなかでは、その漫画は明らかに異質でした。そのプレミアのついたエロ漫画というのが実は裁判で発禁を食らった「蜜室」という、その筋の世界では有名なエロ漫画でした。私が戦後のわいせつ裁判として（刑法175条猥褻物領布罪が適用された裁判）重要だと思うのは伊藤整のチャタレイ裁判、澁澤龍彦のサド裁判、そしてこの「蜜室」が訴えられた松文館裁判の3つです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（下の三つの裁判はどれも出版した人も訴えられてますが面倒なので省きます）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　１　チャタレイ裁判&lt;br /&gt;　これは戦後間もない日本で起きた、政治経済の教科書にはたぶん載ってる（私が高校生のときは載ってました）有名な裁判です。&lt;br /&gt;　イギリスの作家Ｄ・Ｈ・ロレンスの書いた「チャタレイ夫人の恋人」という、作家の妻と庭師の不貞の愛を描いた作品を、伊藤整という日本の作家が翻訳しました。この作品は妻と庭師の情事が非常にこと細やかに描かれていることから、猥褻であるとして訴えられました。伊藤整は最高裁まで争ったのですが結局猥褻であるとして、この小説はいくつかの部分を削除（＊で伏字になりました）されました。法学的に重要なのは、憲法にある公共の福祉と表現の自由との衝突で、公序良俗に関しては表現の自由は制限されるという最高裁の判例ができたことと、またこの裁判で猥褻とは何かということを、一応形にしてみた猥褻の三要件が決まったことがあります（当然のことですがここで定められる猥褻と、前回三島由紀夫や私が決めたわいせつは違います）。以降の裁判はこのチャタレイ裁判を基準にして決まるようになってます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　猥褻の三要件&lt;br /&gt;　　　　　１　いたずらに性欲を刺激する&lt;br /&gt;　　　　　２　正常な人間の羞恥心を害する&lt;br /&gt;　　　　　３　善良な人間の性的道義心に反する&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　後日譚として伊藤整の息子伊藤礼が、伊藤整版の『チャタレイ夫人の恋人』を、些細な誤訳等を治してほぼ伊藤整版に近い形で出版しましたが、何の問題も無いようです。当時の規範に照らせば猥褻なのでしょうが、今これを猥褻だといえば鼻で笑われるでしょう。すくなくとも２，３の「正常な人間の羞恥心」、「善良な人間の性的道義心」は時代によって変わる物だということです。（もっとも最高裁の判決文では猥褻が絶対的なものではないということが記されています）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　２サド裁判&lt;br /&gt;　マルキ・ド・サドのジュスティーヌ関連の物語のいくつかを、澁澤龍彦が翻訳しまとめた『悪徳の栄え　続ジュスティーヌ』が猥褻物領布として訴えられました。前回述べたように澁澤もこの裁判で負けました。&lt;br /&gt;　しかしこの裁判騒動でで二つのポイントがあります。一つは裁判にかかわった澁澤や三島が、いわゆる猥褻が一切消滅した世界は絶望的なまでに味気無く、つまらない物だということをさまざまな場で発言したことです。もう一つが司法に携わる人間の猥褻か否かの判断が、単純に見る人間の生理的嫌悪感によるものでしかなく、実際にそういった人々は、局部が描かれているかどうかという即物的な理屈立てしかできない人たちだということが露呈したことです。&lt;br /&gt;　この『悪徳の栄え』はアナルセックスか二本刺しがスタンダードで、終始一貫しキリスト教的美徳や道徳に糞を塗りたくってます。まさに阿鼻叫喚の&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;糞尿地獄&lt;/span&gt;です。淫行、騙し、窃盗、虐殺がこれでもかとおこなわれ、その行為者たちは「いやぁ～生娘を犯して殺すのは最高だぜぃ！！」と幸福と満足の絶頂に至り、悪徳に邁進するものはますます繁栄を極め、美徳に従う者はとことん虐げられていきます。勘違いされないように断っておきますが、最初から最後までこの調子です、けっして&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;悪党が成敗されるなどという軟弱な、安心できる展開は用意されていません&lt;/span&gt;。まさに「公序良俗糞食らえ」な作品です。前回紹介した三島が言う猥褻に当てはまるのは明らかです。しかしこの作品で抜けるという上級者はあまりいないでしょう。&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;私もその域には達していません&lt;/span&gt;。つまり猥褻の3要件の1つ目をクリアしていないわけです（これが弁護側の論点でした）。しかし判決はこれを猥褻であると強引にこじつけました。豪華メンバーによって法廷で展開されたサド論のほんの一つまみでも裁判官が理解していたかははなはだ疑問です。&lt;br /&gt;　作品の猥褻性が作品の文学的価値によって薄められるかいなかといったことを、まわりくどく延々と語っていますけれども、猥褻性と文学的価値を切り離して考えているあたりが、猥褻が表現の露骨さかいなかといったレベルでしか考えられていないのをうかがわせます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　３松文館裁判&lt;br /&gt;　これは記憶に新しいのでご存知の方も多いと思います。&lt;br /&gt;　どっかのオッサンが自分の子供のエロ漫画を見て、その本を取り締まるようにとの嘆願文を手紙にしたため、警察ＯＢの議員の平沢勝栄に投書したことが事件の始まりでした。すだれハゲは警察に取り締まるよう口利きをし、なぜか警察はそのエロ漫画を出版している松文館の&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;別の漫画&lt;/span&gt;である『蜜室』を摘発しました。&lt;br /&gt;　この裁判も証人に齋藤環氏（病気としての引きこもりの臨床、研究に携わる精神科医で、オタク文化の研究でも有名）、宮台真司氏（サブカル、哲学、政治と守備範囲の広い社会学者）、ちばてつや氏と有名人が集った豪華な物でした。&lt;br /&gt;　この裁判はチャタレイ裁判やサド裁判とは違って芸術対公共の福祉という構図ではなかったこと（作品が芸術という「高尚さ」を持ち合わせていないということは共通見解でした）、初めてマンガという日陰の文化が槍玉に挙げられたこと、オタクの2次元におけるセクシュアリティーがどういうものであるか、本当に猥褻なるものが公共の福祉に反しているのか（適切にゾーニングがなされていれば問題がないのではないかということ）等のことが現実的かつ重要な争点であったことなどでしょう。&lt;br /&gt;　またこの裁判も負けました。この裁判は次回詳しく述べようと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;



</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-03-28T04:45:01+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_96f1.html">
<title>ロザリオとバンパイア　お花畑を焼き払え！</title>
<link>http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_96f1.html</link>
<description>今期のアニメもいろいろなアニメがありますね。今月で終わるアニメ、終わらないアニメ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt; 今期のアニメもいろいろなアニメがありますね。今月で終わるアニメ、終わらないアニメいろいろあります。&lt;br /&gt;　ほのぼのとしたいい感じの空気を出している「のらみみ」、ますます眠くなる「ＡＲＩＡ」の三期、漫画黎明期の演出なのに今観ると物凄い斬新な「墓場鬼太郎」、新房テイスト全開な「俗・絶望先生」、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;富山最強伝説&lt;/span&gt;を作り出した「true tears」と「ＰＥＲＳＯＮＡ」等々いろいろです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それらの中でひときわくだらなく、私のツボを刺激するのが「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;ロザリオとバンパイア&lt;/span&gt;」です。（この言い方だと上に挙げたアニメもくだらないみたいですね、違いますよ）&lt;br /&gt;　脇役がやたら大御所だったり、突然作画がすごいんだかすごくないんだかわからないものになったり、バンクの意味不明なハイキックや、ＯＰとＥＤがどう見ても逆だったり、あと&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;やっふふ～ん&lt;/span&gt;だったりといろいろと魅力があります。しかし何より一番の魅力がそのお馬鹿なお下劣要素でしょう。もうこれでもかというくらいパンツを見せてくれるし、ロリから巨乳、ヤンデレと幅場広いニーズに対応したハーレムを展開してくれてます。&lt;br /&gt;　&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;もう最高にくだらないです(笑）&lt;/span&gt;、ありがとうございます！&lt;br /&gt;　さて私はこのアニメをわざわざ夕方に見ています（大学が終わってからです）。なぜならこの時間帯がもっともこのアニメが「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;わいせつ&lt;/span&gt;」になる時間だからです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　三島由紀夫の「不道徳教育講座」の「桃色の定義」という回で、サルトルの思想を引き合いにしてわいせつとは何かと述べています。ここでさらに私がそれを引き合いに出そうと思います。&lt;br /&gt;　物事を「品の良いもの」と「品の良くない物」に分けると、「わいせつなもの」は後者になります。「品のあるもの」とは内側に自由を秘めているが、その必然性が光で照らされているものです。三島は品のあるものの例にバレリーナの踊りを挙げています。バレリーナは自由に舞っているように見え、しかし同時にある種の予定調和な様式美があります。つまりそれ自体に一個の存在としての&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;自立&lt;/span&gt;と、あるべきところにあるべきものがあるといった&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;必然性&lt;/span&gt;があるものを「品のある物」としているのです。洗練された生き物のように動く機械（エヴァの動くビルみたいのです）の機能美や、世界遺産の建築物のような様式美、漫才のボケとツッコミのようなものも品のよいものに入れてよいと思います。&lt;br /&gt;　また「品の良くない物」はそうでない物です。たとえば銃をもった兵隊の洗練された動きは訓練の様子では品の良いものですが、子供に銃を向けていては品が悪い物になります。英語もとちりながらしゃべられると品が悪く感じますが、流暢にしゃべると格好良くすらあり品がよいでしょう。特にあるべきところにあるべきものが無い、あるいは&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;あってはならないものがあってはならないところにある&lt;/span&gt;のは品のない物です。とくにわいせつはそれに性的なニュアンスが入るといったところでしょう。&lt;br /&gt;　ミロのビーナスやギリシャのアポロ像は美術館に飾ってあれば「芸術」として品の良いものですが、辛気臭いお葬式の会場においておけば猥褻になるでしょう。&lt;br /&gt;　三島由紀夫は、友である澁澤龍彦が翻訳したサドの「悪徳の栄え」が猥褻物としてつるし上げられたいわゆる猥褻裁判で、「猥褻は観念的である」として彼を弁護したのは有名な話です。ただ彼の「わいせつ」によれば&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;女子供の穴という穴を犯し、殺し、バラバラにして火の中に放り投げる&lt;/span&gt;ような「悪徳の栄え」は、あるべきところにあるべきものがありのままに描かれた「チャタレイ夫人の恋人」とは違い、明らかに猥褻です。マルキ・ド・サドだって、自分を牢獄に追いやったキリスト教の糞坊主どものはびこる世界に、徹底的に糞をひりかけてやるために「悪徳の栄え」を書いたのですから&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;猥褻の権化&lt;/span&gt;のようなものです。&lt;br /&gt;　この裁判は澁澤龍彦の弁護に三島由紀夫のほかに大江健三郎や遠藤周作といった大物作家が名を連ねた正に「お祭り」でした。大江健三郎は単純に憲法に保障された表現の自由を守るために闘ったのでしょうが、当の澁澤龍彦は堂々と裁判を遅刻したり欠席したりとしているところを見ると、自分のやったことが違法であり、裁判も勝ち目が無いことをなんとなくわかっていたような気がします。澁澤本人は「性器が描かれていれば猥褻である」といったくだらない理屈立てしかできない馬鹿な法律家どもへのムカツキを単純に爆発させたかっただけなのでしょう、まさに裁判自体が「法の正義」や「法の真実」といったたわごとに糞をぶちまけるわいせつなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　話がそれましたが私は猥褻を、あってはならないとされているところに存在するエロと捉えています。つまり夕方の家族がみんなでご飯を食べているときに、テレビでおっぱいがポロリとするような&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;素晴らしい事態&lt;/span&gt;をわいせつと呼びます。だから私は「ロザリオとバンパイア」がわいせつになる夕方を狙って観ているのです。&lt;br /&gt;　私はこのブログで散々「かくあるべきである」と「かくある」とが混同した認識である「規範」と、「即自的」「対自的」という言葉を使って、辛く苦しい此岸（この世）と夢見る彼岸（ここではないどこか、あるいはあの世）の狭間でいかに人間が苦しむかということを語ってきたつもりです。まぁわかりやすく言えば「こうなってほしい」という夢や理想とどうにもならない現実とのギャップで苦しむことです。また人間は生きている以上はここではないどこかを夢見ながら辛くつまらない此岸で生きていく（そうしないと生きていけない）ということものべました。&lt;br /&gt;　エロを楽しむその根底には人間、特に男の本能に完全にビルトインされた性欲があります。しかしエロは単純に性欲にはとどまりません。彼岸であるところの女性に、自分が抱く幻想でいかにより楽しむかという非常に高度なゲームであります。そして人間の歴史はセックスや性器といった性的なものを汚い物として日常生活から排除してきました。とくにそれを熱心に進めたのがキリスト教で、社会が発達するとセクシュアリティも監獄に閉じ込めるために、汚い物として覆い隠す必要が出てくるのです。このどうにもならないつまらない現実の性を抱えて生きつつ、エロを夢見て人は生きていくのです。（それをするなというのは&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;去勢しろといってるようなものです&lt;/span&gt;）エロがわいせつ足りえる空間でエロを楽しむ、つまりわいせつを楽しむことで、よりそのエロへの幻想に入り込みやすく、そして同時に憎たらしい世界への復讐感情と背徳感を同時に満足することのできるのです。要するにわいせつは最高に面白いエロだということです。&lt;br /&gt;　よく「少年誌での乳首はエロ漫画の乳首とはありがたみが違う」（by大暮維人）とかいったり、アフリカの部族の女性の裸が体型云々は別としてエロくないのは、エロ漫画の世界やアフリカの部族等の世界ではむしろ服を着ていないのが普通ですから(笑）、乳首はエロであってもわいせつではありませんが、少年誌の中では乳首はわいせつだということです。&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;アダルトビデオは見る前が一番楽しい&lt;/span&gt;のはそれに期待しているのもあるでしょうが、それを期待することがわいせつだからじゃないでしょうか。エロ本が散らかった一人暮らしの部屋で見るより、親の目を盗んでこそこそ観るのが一番楽しく、何より&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;燃えます&lt;/span&gt;。&lt;br /&gt;　またわいせつを楽しむためにはスケベでふしだらな物はけしからんという、ジジィやババァがいてくれないとそもそもわいせつという前提が崩れてしまうのでそういった人たちが必要なのも事実です。私はそういった古きよき人たちに感謝する一方、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;思いっきり馬鹿にします&lt;/span&gt;。なぜなら彼らの存在には馬鹿にするという素敵な使い道があるからです。&lt;br /&gt;　私個人に限らずわいせつなくして近代社会、とりわけ日本は成立しないといって過言ではないと思います。なんかの歌にあったように「夢を見るのは人に生まれたから」であり、人間を夢から切り離すのはあまりに酷です。もともと日本がほかの国より優れていたのは政治的な規範や建前が厳しくある一方、個人の彼岸への夢にはある程度お目こぼしがあったことです。&lt;br /&gt;　また一つ勘違いしないでもらいたいのはこういった、わいせつなどの彼岸への夢は現実に実現するべき物ではない、そして&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;実現されないからこそ面白い&lt;/span&gt;のです。イスラエルのユダヤ人がいつまでたってもパレスチナ人を敵にしたがっている、あるいは嘆きの壁を直そうとはしないのは（現実に直そうというバカもいますが）、夢の都エルサレムを永遠に求め続ける対象にとどめ、自分たちが悲劇の民であるという手前勝手な幻想に浸り続けたいことをなんとなく察知してるからではないでしょうか。殺人と男色の美しさを謳ったジャン・ジュネも社会から賞賛されるととたんに文学から手を引きました。「千年女優」の最後にもある「私、あの人に恋してる自分が好きなんだもん」とはまさにうまく恋愛という一種のヒステリーの的を得ています。ニーチェの「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;若いときからもてる男の想像力は犬以下である&lt;/span&gt;」というのは名言です。私だって現実の女がいかに汚く面どくさい物か知っています、しかし、まただからこそ、よりいっそう女性への憧れや幻想が強く、2次元の彼女たちを愛することができるのです。むしろなま物の女が言い寄ってくることほど私が恐れていることはありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いい加減長くなったのでここで終えてもいいのですが、ちょっといいたいことがあるのでまだ終わりません。西洋諸国ではキリスト教が誕生してから存在し、アメリカでは今なお根強く、ヨーロッパでは何とか克服しつつある、そして日本では免れていたのに、地下鉄サリン事件以降徐々に蔓延しつつある病気、いわゆる「不幸の意識」の発展形で私は「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;現実教&lt;/span&gt;」と呼んでいます。自分の規範とずれたこの世界は嫌だという対自的意識の進化形なのですが、世界の方を自分の規範に無理やり&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;同一化&lt;/span&gt;しようというやからです。つまり「理想を目指した現実」ではなくて「理想こそが現実で、現実こそが理想」という物です。私は何もすべての夢や希望をオナニーの道具として割り切れというのではありません。理想や志の無い政治もあってはならないと思います（しかし今の日本の政治はまともな規範も理想や志もかけています）。しかしかなわないけれども願い続けなければいけない夢と、かなえなければいけない夢は&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;本質的に違います&lt;/span&gt;。恐らくこの区別がつかない人たちが現実教の信者なのでしょう。&lt;br /&gt;　極端なたとえでは聖書の「汝隣人を愛せよ」という道徳的規範が、「隣人を愛するよう勤めるべき」から「皆隣人を愛するはず」という転換が起こり、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;世の中みんなおててをつないだお花畑&lt;/span&gt;だと無理やり認識するのです（特に私はこれを&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;お花畑派&lt;/span&gt;と呼んでいます。）ところが世の中には度し難いどうしようもない奴がうようよしています。そういう連中がいる現実と対峙したときにあろうことかそういった連中を建前だけでなく本気で悪として抹殺し、自分たちは無理やりにでもお花畑の中にいようとします。&lt;br /&gt;　日本では地下鉄サリン事件がありました。私はあの事件には、あの時代の中で流れていたどうしようもない閉塞感や不安感が何かしらのハルマゲドンを予期し、恐れ望んでいたという背景があったように思えます。オウム真理教はいつまでたってもハルマゲドンが起きないから、無理やり起こしてやろうとしました。結果やったことといえば高々地下鉄の中で毒ガスをまくといった、最終戦争としては情けない物でしたが、ただのテロ以上の恐怖が日本を包んだのを子供のころの記憶として覚えています。何故あれだけ人々が恐れたかということについて、私は日本人にオウム真理教と自分たちに何か近い物を感じていたからではないかとにらんでいます。そこで自分たちと本気で向き合えるかどうかが正念場ですが、日本人のしたことはオウムは悪であり抹殺せねばならないと、無理やり自分たちは違うんだと強がって見せただけです。&lt;br /&gt;　ニルヴァーナやユートピアを実現しようとせずに現実を生きろというならまだ理解できます。しかし現実こそ素晴らしく夢や希望なのだというのでは、オウムとは数十人殺す程度の違いしかありません。どうも今の日本人は建前と希望と現実の使い分けというか、付き合い方には&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;へたくそ&lt;/span&gt;な気がします。&lt;br /&gt;　その現実教ですが具体的には「&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;耳をすませば&lt;/span&gt;」が適当だと思います。この最悪な作品は、夢としてのフィクションとしてのあり方を拒絶しています。宮崎駿はこの映画を通して「若者よ、お前らはこういう青春を生きろ、青春とはこういうものなのだ」と現実にダイレクトに摩り替えさせようとします。私は宮崎駿とは付き合いはありませんが、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;宮崎駿がこんな青春を謳歌していないことだけは保証します&lt;/span&gt;。はっきり言ってこんな青春がかつて実在したか、そして可能なのかはかなり怪しい、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;というか無理です&lt;/span&gt;。しかしこの現実教の犠牲になった人は山ほどいます。&lt;br /&gt;　さらに最近現実に恐ろしいのはお花畑派の人たちです。日本では主に信者がＰＴＡ等のクソババァ共ですが、先に述べたように私はこういう人たちは馬鹿にする一方で感謝するべきだと考えています。しかし彼女らが&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;具体的に政治的行動に出るとなれば話は別&lt;/span&gt;です。彼女らは児童ポルノ法を以下のように改正しようとしています（さらに私は彼女らを&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;現実教お花畑森山派&lt;/span&gt;とか単に&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;森山派&lt;/span&gt;と呼んでいます）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　１規制の対象となる児童ポルノの定義を&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;絵や漫画といった非現実の児童&lt;/span&gt;を対象とした物に拡張する。&lt;br /&gt;　２児童ポルノの&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;単独所持&lt;/span&gt;を禁止する（現行の法律では製作販売は取り締まれる）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私は児童ポルノ自体をよいといっているわけではありません。当然どんな酷いものなのかも予想がつきます。そういった犯罪を「無くそう」という志は当然大事です。しかしその理想は「かなえようと努力する」理想であって、「実現しよう」という理想ではありません。恐らく後者と見るのは犯罪がどうやってもなくならないという現実を受け入れられ無いという&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;芯の弱い本性&lt;/span&gt;の現れでしょう。&lt;br /&gt;　１に関しては最早言うまでも無く&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;論外&lt;/span&gt;です。非現実に思いを馳せるのはもはや&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;人の性&lt;/span&gt;です、こういった性を抜け道も残さず押さえつけてうまくいった例を私は知りません。&lt;br /&gt;　２に関しては１と同様の理由です。ロリコンやぺドフィリアの存在を社会的建前として否定することならともかく、世の中にはそういった異常な、あるいは社会的に認められえない性癖を持った人間は確実に存在しますし、自然発生的に生まれるといってもよいでしょう。仮に児童ポルノを見ることによってロリコンに開眼する人が多くとも、当座のところ禁止したところで&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;圧倒的な需要&lt;/span&gt;があるのもまた事実です。人間は自分の性的な欲望を満たすためならば、&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;例え違法だとしても手段は問いません&lt;/span&gt;（お花畑派にはこれが認められないのでしょう）。むしろ押さえつけられるほど、実際に行動に移す方の圧力が強くなるでしょう。事実私は１が犯罪行為に当たるとしても、今の趣味を&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;止めるつもりはさらさらありません&lt;/span&gt;。&lt;br /&gt;　またあれもダメこれもダメといって、何もかも違法化してうまくいった例もまたまれです。同程度の一個の犯罪を犯すのも二個の犯罪を犯すのも心理的には大差ないですから、犯罪行為の枠を広げるのは逆効果です。日本では大麻も覚せい剤も「ダメ。絶対。」で一緒くたにしています。しかし大麻で死んだ人間は私は知りませんが（混ぜ物で死ぬことはあるかもしれませんが）、覚せい剤で死んだり、廃人になった例はどれほどあるかわからないくらいです。大麻から覚せい剤やヘロインではまったく麻薬（覚せい剤は麻薬取締法ではなく覚せい剤取締り法の対象で法律的、薬学的には区別されています）の質が違うのに同じ扱いをしてしまったがために、売人がのろけに大麻を吸わせて、無知なのをいいことに覚せい剤にまで手を出させるなんて言うアホな事態も起きています。&lt;br /&gt;　ロリコンを悪とする政治的規範には文句はありませんが、森山派の人たちは、六法全書を書き込んだら実行に移される&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;デスノートかなにかと&lt;/span&gt;勘違いしているのではないでしょうか？そんなくだらない世迷言に振り回される人がいること、実際の被害を抑えられるかどうかはわからないし、欧米の薬物事情を踏まえると逆効果にすらなりかねないことを理解しているのでしょうか。繰り返しますが&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;私は児童ポルノを取り締まるなといっているわけではありません&lt;/span&gt;。例えば児童ポルノの顧客を警察がリストに挙げて監視しておく等の措置を取ったほうが、監獄化した社会にあっては、性犯罪の抑止にはよっぽど効果があるでしょうし、実際うちの大学の寮（全学連の活動拠点のひとつ）に警察が令状無しでがさ入れすることなどちょくちょくあります。実際に令状無しの捜査を明文化して認めるかどうかは別として、現場に実際にそのくらいの裁量を持たせることのほうが効果的でしょう。また法律の改正によってかかるコストを、被害にあった児童のケアに当てたほうがより有意義なのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　まぁこういった現実的な政治的判断が&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;思いつかないあたりがお花畑派たるゆえん&lt;/span&gt;なのでしょう。実際に政治家としての職務を全うしたいのなら、自身の&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;頭の中のお花畑をナパーム弾できれいさっぱり焼き払え&lt;/span&gt;。話はまずはそれからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;　&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;No わいせつ　no life&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;script charset=&quot;utf-8&quot; type=&quot;text/javascript&quot; src=&quot;http://ws.amazon.co.jp/widgets/q?ServiceVersion=20070822&amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;ID=V20070822/JP/ferdinandmc-22/8001/d3e3a089-dacb-4817-ace4-e2a0be4193be&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/script&gt; &lt;/p&gt;&lt;noscript&gt;&amp;amp;amp;amp;amp;amp;lt;A HREF=&amp;amp;amp;amp;amp;amp;quot;http://ws.amazon.co.jp/widgets/q?ServiceVersion=20070822&amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;MarketPlace=JP&amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;ID=V20070822%2FJP%2Fferdinandmc-22%2F8001%2Fd3e3a089-dacb-4817-ace4-e2a0be4193be&amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;Operation=NoScript&amp;amp;amp;amp;amp;amp;quot;&amp;amp;amp;amp;amp;amp;gt;Amazon.co.jp ウィジェット&amp;amp;amp;amp;amp;amp;lt;/A&amp;amp;amp;amp;amp;amp;gt;&lt;/noscript&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-03-19T09:07:13+09:00</dc:date>
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<title>コミュニケーションとはいかなるゲームか</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;　実家に帰省したり、資格の勉強やら、ＰＣがトラぶったりなどでなかなか更新できず申し訳ありません。これを楽しみにしている物好きなどいるのか怪しいですが、予告した通りにコミュニケーションとはいかなるゲームなのかという話題について語ろうと思います。&lt;br /&gt;　今回も大した内容でもないのに堅苦しくなるので次回は思いっきりくだらない「ロザリオとバンパイア」について語ろうと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一般的な誤謬&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私がここで述べる「コミュニケーション」というのはバタイユの言う「交流（コミュニカシオン）」に近いものであり、単なる伝達としての意味合いが強いコミュニケーションという単語を敢えて使います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一般的に文章（エクリチュール）や語りといった「コミュニケーション」についての浅薄な認識が広く持たれている様な気がします（気がしてるだけかもしれませんが）。その認識とはコミュニケーションとは、他人に自分の考えを伝える行為に尽きるという認識であり、誤謬です。確かに世の中にはそういった伝達のために発信される情報の方がはるかに多いのですが、私は本当に面白いものは単なる伝達以上のものだと思います。&lt;br /&gt;　ギリシャ文化を研究していた時のニーチェは、プラトンについてのところで、本を書く意味は知識や思索が足りない読者を導いてやることではなく、書く事によって自分の思索を深めることであり、その付加的な可能性として読者も自身の思索を深めることができるかもしれないだけだと述べています（ちくま学芸文庫ニーチェ全集１　古典ギリシアの精神より）。このニーチェの発想は後年の彼の生き様を暗示していると同時に、単なる伝達や啓蒙（説教）としては説明のつかない、数々の創作物の面白さの所以を的確に表現していると思います。&lt;br /&gt;　具体的にコミュニケーションとはいかなるものなのかということを述べる前に、何故多くの人々が文章や語りといった行為を、単なる伝達行為として捉えようとするのかということについて私の見解を述べようと思います。&lt;br /&gt;　今回もいつものように即自的、対自的という言葉を使います。誰しも子供のときは（あるいは大人になっても？）世界と自分とが溶け合っている認識を持っています（これを即自的といいます）。ところがあるとき世界と自分との違いを認識し、他人の存在を知ります（対自的といいます）。この「他人」はウラでは自分のことを馬鹿にしたり、嫌悪したりしているかもしれません。しかも人間は確固たる自我なるものを持っているわけではなく、他人の持つ自分への印象を自分に反映するという性質があります。結果自分のイメージを他人に完全にゆだねてしまうか、他人の心を操作しようとします。&lt;br /&gt;　とどのつまり人は、他人を自分の操作可能なものにしようという欲求に常に駆られているということです（他人に自分のイメージをゆだねた人は、今度はそのイメージを守るために戦います）。そういう洗脳合戦に明け暮れる人たちにとっては、人生は他人にいかに自分の言うことを聞かせるかというゲームに過ぎません（口ではどんなきれいな道徳を口にしようともです）。他人の問題に還元されえないようなことを話す人を、「独りよがり」と言って攻撃する人がよくいますが、これにはその人が自分の操作できないところにいることへの憎しみが働いているといえましょう。しかしながら本当に面白い物は「独りよがり」な物からしか得られないというのが私の経験による事実です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　コミュニケーションとはいかなる行為か&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　バタイユの言う「交流（コミュニカシオン）」についての私の見解を述べようと思います。（自分の目でバタイユが何を言っているのかを確かめたい人は『無神学大全Ⅱ　内的体験』（平凡社）を読んでみてください）&lt;br /&gt;　人間の精神的活動の中で、彼がもっとも尊んでいたのは絶頂へと至ろうとすることです。それは自分の体を引き裂いて（供犠）、一皮剥けた自分と世界のありようへと向かうことであり、そこでは今ある自分とそうでない異物との混ざり合いが起こっているのです。この焼けるような苦しみと陶酔が伴う行為こそが交流なのです。つまり交流とは異物（一皮剥けた自分）との交じり合いと、それによる変化のことです。&lt;br /&gt;　人間には誰しも自己顕示欲や他人を操作したいという欲求があります。私の考えるコミュニケーションはそういった欲望の力をかりて、バタイユの言う交流を図ることです。単純な自己顕示欲や、他人と操ろうという建前をおいて新しい自分へと至ろうとするのです。コミュニケーションとして創作行為を捉えると、話したり書いたりすることで建前として他人に言い聞かせる体裁をとりますが、その実狙っているのはもやもやとした自分の存在を異物として吐き出し、それを消化することで新しい有り様の自分へといたることなのです。私は創作行為を支えるのは単なる自己顕示欲を超えたこのような欲求だと思います。（自己顕示欲はそのための道具ということです）&lt;br /&gt;　また他人の言説や創作物を受け取り感じることもわたしはコミュニケーション足りえると思います。単純に相手の伝えたいことを理解するという単なる伝達を（これにも実は他人を操作してやろうという欲が働いています）建前として掲げていますが、運がよければ自分も新しい自分へと至れるかもしれませんし、異物と混ざり合い格闘することで相手とは別の方向に変化することができるかもしれないからです。&lt;br /&gt;　私はこのようにコミュニケーションを捉えています。実際誰かと分かり合ったところで安心こそすれども面白いことなんて一つもありませんし、コミュニケーションを単にコンセンサスを得るための行為とするならば、所詮は自分の言っていることを相手に言い聞かせる洗脳ゲームでしかありません。少なくとも私はそんなものには飽き飽きしています(実際世の中には建前ではなく本当に洗脳ゲームに明け暮れる人たちがたくさんいます）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;コミュニケーションとはいかなるゲーム(遊び）か&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ここで表題になります。「いかに物事をたのしむか」でも述べたように私は「面白い」を価値基準にしています。このコミュニケーションも面白いゲームだと思います。建前として相手の伝えたいことを理解したり、相手に何かを伝えたりといった洗脳合戦の体裁をとり、その振るまいの中でどう戦略的にコミュニケーションをするかという営みは非常に面白い物です。&lt;br /&gt;　例えばアニメや漫画は建前としてエンターテイメントという体裁があります。当然それにのっとって作品は作られます。しかし中にはその単純な娯楽の枠の中で私の言う意味でのコミュニケーションを図ろうという面白い物があります。それを受けて娯楽作という建前も踏まえて受け手もコミュニケーションを図るのであり、それはいかに面白く作品を楽しむかという受け手の熱意によって生まれます（当然作り手にとって好ましいような楽しみ方にならないこともよくあります）。&lt;br /&gt;　このような独りよがりで戦略的なゲームがつまらないわけがありません。

&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-03-12T07:42:30+09:00</dc:date>
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<title>イジメかっこ悪い？</title>
<link>http://kaibunsyo.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_fd87.html</link>
<description>　アニメの『シゴフミ』でイジメがネタになっていました。話自体はべつになんと言うこ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　アニメの『シゴフミ』でイジメがネタになっていました。話自体はべつになんと言うことはないのですが、イジメの嫌な感じを非常にうまく表現されていました。コンパスでさしたり、&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;人間競馬&lt;/span&gt;はさすがに現実的では無いですが、女子がイジメにどう関わっているかという感じが非常にうまいと思います。私も中学のときにいじめられていたので、あの独特な死にたくなるほど辛い感じを表現したのはすごいです。&lt;br /&gt;　今回はイジメについて語ろうと思います。よくテレビなどで教育関係者や評論家（&lt;strong&gt;気取り&lt;/strong&gt;）や政治家たちが「イジメ問題」を語ると、&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;面白いくらいに本質をはずして&lt;/span&gt;むちゃくちゃな議論をします。イジメは単なる傷害事件を見るような見方では、それほどたいしたものではなく、日本の&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;個のあり方&lt;/span&gt;という観点を踏まえなければそのえぐさを知ることはできません。&lt;br /&gt;　日本に限ったことではないのでしょうが、実は人間はそれほど強い個というものを必ず&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;持っているわけではありません&lt;/span&gt;。社会や共同体、他人の中で自分がどう思われているかという、他者の中の自分の姿を自分自身に投影してかろうじてアイデンティティーを保とうとするものなのです。つまり周囲に自分を承認してもらうことで、自分の形が決まっているということです。日本はこういった社会への存在の依存度がかなり強い国です（というよりも依存するような人間を育てるように教育がなされている）。&lt;br /&gt;　こうなると他人の自分への評判が即ち自分であると&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;本気で&lt;/span&gt;思うようになります。この自分の存在の形を他者に決定させるという現象は、俗物には本当に理解できないものだと思います。エヴァでいうと、シンジ君が「エヴァのパイロット」という他人からの評価を自分の存在の形に採用したことを思い浮かべてください（そして周知のようにそのために苦しむ羽目になります）。世界と自分とを等号で結ぶために、自分を世界にあわせるという対自的意識の現象と捉えてもよいでしょう。&lt;br /&gt;　イジメの辛さの本質は、周囲から存在を否定され、それがダイレクトに自分で&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;自分の存在を否定&lt;/span&gt;しなければならなくなることにつながることです。これは実際日本のような国では殺されるのと同じことです。「イジメ問題」で踏まえるべきことは、日本のような国では周囲から存在を否定、あるいは嗜虐の対象になるということが、個人の存在に致命的な威力を発揮するということです。&lt;br /&gt;　またイジメる側も自分の存在を共同体と照らし合わせているので、主体的な判断ではなく共同体としての意識で行動します。つまりイジメは共同体験であり、一種の祭りです。火種が、誰もが持っているデュオニュソス的な嗜虐性なだけで、いじめることによって自己承認がなされるのですから、やる側にしてみたら&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;面白くてやめられるわけがありません&lt;/span&gt;。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　長々と説明したようなことがどうやら即物的な俗物どもにはこういったことが理解できないらしく、まともな議論を聞いたことがありません。宮台真司氏ぐらいしかまともなことを言っている人を知りません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;蛇足として&lt;/span&gt;イジメについて建設的な提案をして話を終えようと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・いじめる側について&lt;br /&gt;　&lt;strong&gt;愚民&lt;/strong&gt;どもを抑える規律も当然必要ですが、デュオニュソス的（興奮と陶酔に結びつき、それゆえに血なまぐさい物）な物が人間と不可分であることを認めるべきであり、何かしらのデュオニュソス的な物、場、体験を用意すべきです（ＰＴＡの糞ババァどものせいでそれが今日本に決定的にかけている）。わかりやすく言えば&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;ガス抜き&lt;/span&gt;です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・いじめられる側について&lt;br /&gt;　個人的にはイジメは&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;悪ではない&lt;/span&gt;と思っています。というのは社会の構成要素の大部分がイジメをするような人間で構成されているため、社会がイジメは「悪」であるといってもそれは欺瞞でしかありません。&lt;br /&gt;　いじめられた人には二つの道があると思います。それでも他者に自己承認を求め続けるか（これは結局いじめる側の人間と&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;同レベルの人間&lt;/span&gt;であり続けることを意味します）、自分が社会には認められえない存在と割り切り、自分だけの楽しみを見つけて、社会と自分の存在とを積極的に切り離すかです。私はお分かりのように後者を選びました。&lt;br /&gt;　しかしいずれにせよ学校には行くべきではありません。本田透が「いじめられて自殺するくらいなら不登校になれ」とかいう本を書いていますが、まったくの同感です。彼の考えは&lt;span style=&quot;color: #cc0000;&quot;&gt;はっきり言って滅茶苦茶&lt;/span&gt;ですが、結果的には一致することがよくあります。私は卒業まで学校に通いましたが、中学なんて行かなければよかったと今でも思っています（行かなくても大学には行けます）。次回あたりに語ろうと思ってますが、私は「コミュニケーション」を一つのゲームとして捉えています。いったんイジメられると最早そのゲームに勝ち目はありません、負けが決まっているという意味ではその時点でゲームですらありません。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>ferdinand</dc:creator>
<dc:date>2008-02-12T07:06:49+09:00</dc:date>
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